第七十二幕
「志津様、犬塚様がお越しになられてます。」
「えっ?あっ、どうぞ。」
埋木舎の一室で女中の佐登と弥千代といたところに違う女中が来て言ったのに対して慌てて志津が答えた。
女中に連れられて犬塚がやってきた。
「失礼いたします、志津殿。
御息災ですか?」
「はい。今日はいかがされましたか?」
「直弼様から伝言があります。」
「江戸に呼んで頂ける件でしょうか?」
志津は少し暗い表情で答えた。
「ご存知でしたか?」
「貞治様から兄に手紙が来まして、兄の方からも聞いております。」
「なるほど、そうでしたか。
正式に申し上げます。今回、直弼様の要望により彦根における直弼様の気の許せる者を数人、江戸に呼び寄せたいという話になりました。そこで志津殿と八千代姫にも江戸に来てほしいと直弼様直々に申されております。他にも数人おられますが特にお二人には来てほしいとの事です。
いかがでしょうか?」
「兄からもそのお話を頂いていろいろと考えさせていただきました。
私はこの機会に身を引かせて頂きたく思います。若殿様はいずれ奥方をお迎えになる事になると思いますが私のような田舎者がそばにおりましたら差し障りになる事もあると存じます。」
「なるほど、心中お察しいたします。弥千代姫はどうされるおつもりですか?」
「弥千代は直弼様の初めての子になりますから、江戸にお連れ下さい。
弥千代はこちらの佐登さんにとてもなついておりますし、直弼様のお世話も佐登さんが十分お出来になります。どうか、そのようにお取り計らいください。」
「お気持ちは固まっておりますか?」
「はい。色々と思うところもありますし弥千代と離れるのもつらいですが、周囲と相談させてただいた結果、身を引く事に致しました。」
「わかりました。その旨を直弼様にお伝えいたしますがご納得いただけるかは私にもわかりません。
ですが、一つだけお耳に入れておきたい事情がございます。」
「何ですか?」
「直亮様が直弼様の要望を聞く条件として、江戸にいる直弼様の信頼する人物を一人交換で彦根に戻すことを条件にされました。」
「それはどなたになられるんですか?」
「貞治殿です。これに関しては少し問題もありますが直弼様も妥協点として認めざるを得ませんでした。
貞治殿が戻される期間も大体一年となってますから、少しではありますが側近の貞治様がいなくなるのですから、志津殿や弥千代姫にはそばにいてほしいと思われるのではないでしょうか?」
「私に気持ちは変わりません。直弼様にもそうお伝えください。」
「そうですか、それでは私はこれで失礼いたします。
また詳しく決まったことがあればお伝えに来ます。」
犬塚がそう言って部屋を出て行った。




