第七十一幕
-彦根-
女中の佐登さんが弥千代の面倒を見てくれているのを見て志津は微笑んでいた。そこに兄である秋山善八郎が部屋に入ってきた。
「志津、少し話があるからちょっと来てくれるか?」
志津は佐登の方を見ると、佐登は笑顔でうなずいた。
「それではちょっとお願いします。」
志津はそう言って善八郎に続いた。
「実は大事な話なんだが、貞治様から手紙が届いた。
直弼様が江戸での生活の中で気を許せる人が少なくとてもつらい思いをされているそうだ。
そこで彦根から数人、気の許せる人達を江戸に連れていけないかという話になっていて、直亮様に確認中らしい。その中で直弼様が志津と弥千代にも江戸に来てほしいと仰られてるみたいだ。
貞治様としても志津や弥千代が江戸に来てくれた方が直弼様も嬉しいだろうと賛成されている。」
「兄上は賛成ではないのですか?」
「志津、正直に言うなら志津と弥千代が直弼様の隣にいるのが幸せなら賛成したいと思っている。
でもな、今後の事を考えると志津の立場は難しくなるのではないかと思う。
大名になるなら、正室になられるのは同じ大名家やもしかしたら将軍家の血筋の方かもしれない。
そうなった時に藩士の娘である志津は家格が違いすぎて辛い思いをするんじゃないかと父上と母上が心配されている。しかも、すでに子がいるというのも心配事のひとつだ。後から入ってくる正室が大名家だった場合は跡継ぎ問題などにも発展するかもしれない。幸いな事に弥千代が女児だから跡継ぎにはならないから心配はないが今後、第二子が男児だった場合は面倒になるだろう。
そんな心配もあるから積極的に賛成の立場はとれないんだ。」
「父上や母上も同じ意見なんですか?」
「父上と母上はそもそもが志津が直弼様と関係を持つことも賛成ではなかったわけなんだよ。
大名家の家で奉公をする事で仕事ができるようになれば位だったわけだ。それでも認められていたのは直弼様が庶子で大名家から離れる可能性の方が高かったからというのもある。
あれほど学問ができて色々なお寺にも出入りされていたから学者や僧侶にでもなられるのではないかと思われたわけだよ。それが世子になられてとなってくると両親としては心配になっても仕方ないと思う。
だから・・・、あー・・・もうなんていえばいいかわからないんだよな。
直弼様のお気持ちも志津や弥千代の気持ちを考えても一緒にいたいと思うと俺は思うけど、親の言いたい事もわかるから上手くは言えない。でも、今後の事となるとやっぱり心配になる。」
「私は結局、どうすればいいのでしょうか?」
志津は本当に困ったように聞いた。善八郎は苦渋の決断を下して、
「志津、志津にはつらい話だが、弥千代は直弼様の娘としてこれからも井伊家にいなければいけないと思う。でも、志津が身を引ける機会というのは今がその時だと思う。いま江戸に行けばずっと直弼様と共にいる未来になるだろう。だから、今しっかりと身を引くべきだと思う。
弥千代とも離れ離れになるが、今生の別れになるわけでもない。
大名の側室として辛い思いをし続けるなら、今新しい道を選んで欲しい。
どの道を選ぶのかは志津に任せるけど、俺も父上も母上も志津が幸せになれる選択ならそれを応援する。
まだ少し時間はあると思うからしっかりと考えといてくれ。」
善八郎は伝えにくい事をまっすぐに話して部屋を後にしていった。志津は今までの生活と直弼様と弥千代を失うかもしれない未来、そして大名となった直弼様との生活の中で兄の言ったような問題が起きるのかもしれないという不安がのしかかってすぐには答えが出そうになかった。




