第六十五幕
「直弼様、申し訳ありませんがそろそろ・・・・」
僕が声をかけると弥千代姫を抱いていた直弼様は寂しそうに弥千代姫に笑いかけて、
「じゃあ、父は江戸に行ってくるね。」
そう言って侍女に弥千代姫を渡した。志津殿は正室として扱われているわけではないし、江戸に行けば大名家の息女等を正室として迎えねばならなくなるだろう。そうなると弥千代姫にはそう簡単には会えなくなる事も見据えての言葉だったのだろう。
その意味でいうと弥千代姫が女児であったのは幸いなのだろう。
もしも男児だった場合は直弼様の長男となり、跡目争いに巻き込まれる心配があったからだ。大名家の血筋の男児と彦根藩士の血筋の男児ではどうしても大名家の方が優先されそうで怖い。
会えなくなっても幸せになって欲しいと思われているのだろう。
直弼様は弥千代姫の頭を撫でてから、
「悪いな貞治、行こうか。」
「すみません、お別れを急かしてしまいました。」
「いや、また会う事を誓えたからこれはこれでよかったし、長引けばそれだけ寂しさも増すからな。」
直弼様は寂しそうに振り返りながら埋木舎を後にした。
夜になって大垣まで来たところで今日は宿をとる事にした。
宿の部屋には彦根からわざわざ長野主膳と三浦北庵医師が来ていた。
「直弼様が世継ぎとなるのは決まったようなものですね。」
北庵医師が言い、直弼様は難しい顔をして
「どうなのでしょうね。江戸に行ってからでしか本当の事はわかりませんから。」
「直亮様からは世継ぎとして江戸に来るようにと言われたのでしょう?」
北庵医師はあまり状況を聞いていないようだ。長野主膳が
「世継ぎの直元様がお亡くなりになられ、今も井伊家に残られている方は直弼様だけなのですから間違いないでしょう。貞治殿はどのようにお考えなのですか?」
この男は何か知っているのか、そんな不安を覚えたが
「一介の従者でしかない私が言えることなどありはしません。ただ、直弼様が今まで積んでこられた研鑽が認められていないとは思いません。」
「ふむ、さすがは貞治殿ですね。直弼様のそばにいたからこそ直弼様が認められる事に対する疑いがない。主従関係を超えた絆のようなものを感じますね。」
北庵医師に言われると少し恥ずかしくも感じた。長野主膳が
「そういえば、貞治殿は直亮様のご命令で長らく彦根におられなかったとお聞きしておりますが、どちらにいかれていたのですか?」
「紀伊の方に行っておりました。御三家と呼ばれる紀伊藩に行き、蘭学の講義をさせて頂いておりました。あまり表立って行動してたわけではないので私が紀伊藩にいた事をご存じの方も少なくなっております。」
「それは何故ですか?将軍家に講義をするなど名誉な事ではありませんか?」
主膳が何を聞きたいのかわからないがこういう質問が来た時の対応も決めてあったので
「直亮様は地理的にも近い紀伊藩に少し肩入れをしている所があるようです。今後、将軍継嗣問題が起こった場合には紀伊藩からの将軍擁立も見越して他家よりも優秀な将軍候補を育てようとされたのではないかと思います。実際に何人かの将軍家の方にお話をさせて頂きましたが、日本と外国の関係に関して興味を持っておられる方が多かったです。」
「なるほど、一橋やはり江戸に近い分だけ勢力を持っているといわれてますからね。水戸などと比べても紀伊が少し劣ると感じてもおかしくはない。それなら本領の近江が近い紀伊を立てる事は直亮様にとって有利に働きそうですね。」
「まあ、直亮様が考えておられる事も江戸についてみないとわからないですから。」
北庵医師が言うと直弼様が
「そうですね、とりあえず今この旅を楽しむことにしましょう。10何年ぶりの江戸ですからね。
それにこうして会いに来てくださったお二人にも感謝しております。」
直弼様と僕、北庵医師、長野主膳はその後も色々な話をして終夜語り合ったのであった。