第六幕
江戸時代にタイムスリップしてから1週間が経った。脇さんにこの時代の作法や常識的な事を教わりながら、鉄三郎様の外国に対する質問に答える日々を送っていた。
幸いな事にトラックにはねられた時に持っていたカバンの中に英語の辞書や歴史の教科書が入っていたので、わからない事を調べながらなんとか質問に答えていた。
そんなある日、鉄三郎様がお出かけになるという事だったが、脇さんは別の仕事で同行できないので代わりに僕が行く事になった。
「あの、鉄三郎様・・」
「どうした?」
「本日はどちらに行かれるのですか?」
「ああ、聞いていなかったのか。
今日は、弘道館に行こうと思う。」
「弘道館とは何ですか?」
僕は初めて聞いた場所の名前だったので聞き返した。鉄三郎様は少し得意げに
「弘道館というのはな、父の直中が稽古館から名を改めた藩校で色んな事を学ぶ場所だ。毎日のように通っておるが、貞治は脇殿との勉強があるから今日が初めてだったな。父は砲術、特に鉄砲の名手でな自ら一貫流という流派を立ち上げるほどだったのだ。
さすがに、屋敷で鉄砲を撃つことはできないし、やぶさめの練習もできないからな。」
「やぶさめとは何ですか?」
「馬に乗りながら、弓で的を射る事だ。戦が盛んだった時は馬に乗りながら刀や槍を振り回し、時には馬を走らせながら敵を弓で倒したという。それを練習するのには馬を走らせられる広さが必要だが、私の屋敷では難しいからな。
何より同年代の者との交流ができるのが楽しいのだ。」
「そのような場所に僕も行って大丈夫なんですか?」
「まあ、大丈夫だろう。従者もつれずに現れる方が問題だろうしな。」
そうこう言っている間に弘道館に到着した。藩主の弟が来たのだから盛大に出迎えられるのかと思ったが、誰も近づいてこない。不思議に思って
「出迎えなどはないのですか?」
「庶子である私に媚を売るものなどそうはいないさ。
たまに兄上の従者が嫌味を言ってくるぐらいだが、貞治のおかげでそいつらも近寄ってこないようだな。」
この時代では身長が大きな僕を牽制しているという事だろうか?
戸惑っている僕に鉄三郎様が
「貞治、あそこにいる者達が兄上の従者だ。ちょっと睨んでくれるか?」
僕は言われるままにそいつらを睨みつけた。睨まれた奴らは慌ててその場から走り去っていった。鉄三郎様は声を出しさえしなかったが、お腹を抑えて笑っている。
「彼らは何もわかっていないな。誰かを見下し嘲るという事は反感を買い自らの可能性を失う事に等しい。私が藩主になれないからと言って、見下すなど愚かな事だ。江戸幕府において井伊家は名門の家柄だ。どこかの大名の養子に出される事もあるだろう。特に藩主である直亮様は多くいる弟を大名の養子とする事で発言力を強めようとしている節がある。私が養子に出されるかはわからないが、大名の養子になったなら、彼らにはきついお灸をすえてみたいな。」
「そのような意地の悪い事は言われない方が得策ですよ。
因果応報といいますが、めぐりめぐってご自身に帰ってくるかもしれません。」
「そうだな、ではまずは砲術から行こうか。貞治はまだ馬に乗れないようだし、砲術の訓練から始めるとしよう。」
「えっ?僕もやるんですか?」
「ずっと見ているだけだと思っていたのか?
自分の身は自分で守らなければいけない時代だからな。
なにより、主君が汗水流して訓練しているのを従者が見ているだけなどあり得んぞ。」
鉄三郎様は笑顔でそう言った。この後、僕は本当に平和な日本で暮らしていた事を思い知るほどの鉄砲の衝撃を受ける事になった。