第五十六幕
直弼様と長野主膳の会合は三日目に入っていた。
国学の話や和歌の話などで大いに盛り上がっていた。残念ながら和歌の話にはついていけなかったが、話の中で長野主膳が同い年だという事が判明した。
僕みたいなえせ学者ではなくしっかりとした学者である長野主膳が同い年というのもびっくりだった。
色々な話が出たが、長野主膳は自らの過去に関しては全く話さなかった。
僕も過去については話せないが、長野主膳はもっと違う理由で話したがらないように感じた。
「直弼殿は今後どのようにお過ごしになられるのですか?
藩主の弟という立場ですが、藩主になれる可能性はあるのですか?」
長野主膳がきり出した。僕からすれば直弼様が藩主になり大老になるところまで知っているがこの時代の人にはわからない事なので気になるのだろう。今後の関係性についても少し考えているのかと少し気になった。
「どうなるかわからないけど私は自分が藩主になるために色々な学問を勉強しているわけでもなく武芸に励んでいるわけでもない。人脈づくりのために趣味を通して色々な人と交流しているわけでもない。
常に自分が決めた目標を達成しながら成長し続けたいと思っているだけなんです。
それに今後どうなるかを気にしながらではやりたい事もできなくなるかもしれませんからね。
主膳殿は自分の未来が決まっているとして、そこに向かって歩きますか?
それが良い未来でも悪い未来であったとしてもです。」
「ふむ・・良い未来とその時に感じてもその場だけかもしれませんし、立場が変われば見方も変わりますから何をもって『良い未来』とするかという問題がありますね。
逆に悪い未来の中に新たな発見や学びがあるかもしれない。
幸福の中に進歩があるとは限りませんから。」
僕は聞いているだけあったが哲学的な話になってきたなと思った。お互いに言いたい事もわかるが未来を不安に思う気持ちや決められた生き方を過ごす息苦しさといった状態というのはこの時代でも現代日本でも変わらないのかもしれない。自分の未来は自分の積み重ねた努力や知識によって切り開くものであると僕は思う。
どんなに苦しい『今』であってもその苦しみの中で得た知識や経験が次の苦しみを減らすものだったり、同じ状況になった誰かへの助言に繋がっていく。
いかなる苦しみもきっと過去の自分という殻を脱ぎ去るための試練なのだと思えば、次の自分への成長につなげられるだろう。苦しいから逃げる事も大事だが向き合い戦う事も大事なのかもしれないと二人の話を聞きながら考えていた。そこに直弼様が
「貞治、新しい茶菓子を貰ってきてくれるか?」
「承知しました。」
この時、僕が少し席を外している間に直弼様と主膳の間で冗談交じりに直弼様が出世したら部下にするという主従関係が結ばれていた事を僕は後日知る事になるのだった。




