第四十七幕
正月のもやもやを抱えたまま月日は流れていき、直弼様達の関係にも進展はあったようだ。
普通に会話するだけでなく夜を共にする事もあったようだ。
志津殿が埋木舎に来てから一年が過ぎていった。天保11年も終わりそうになった頃には志津殿が直弼様の子供を宿したという事もあったが、残念ながら流産に終わった。
色々な事があったが、直弼様と志津殿は相変わらず仲良くされている。
この時代に来てから色々な事を経験してきたが、年々、月日が経つのが早く感じるようになってきた。
これは単純に年を取ると一年が早く感じるという現象なのか、カレンダーもない時代だから日にち感覚が狂ってきているのかはわからないが悪い気はしない。
そんな中で天保12年、西暦でいうと1841年に徳川家斉が没すると12代将軍・家慶の時代になった。
政治改革が老中の水野殿を中心に始まっていると西郷殿が言っていた。
天保13年になると水野殿の改革も本格的になり、学校の授業で習った事のある天保の改革が始まった。
実際に学校で習った事を体験するというのが不思議な感じではある。
厳しい倹約令が出て武士だけでなく農民や商人などに対しても厳しく取り締まられている。
寛政の改革を参考とされている事もあって少し厳しすぎる感じはする。
さらに仕事を求めて江戸に集まっている人を地元に返す人返しの法が出された。
これは飢饉などで出稼ぎに来ている百姓を強制的に帰らせる法律が出されたわけだけど、これにも理由はある。江戸に大量の人がなだれ込んで治安の悪化や仕事の不足にもつながっている。
しょうがない事ではあるが、飢饉などのどうしようもない事情で江戸に人が集まっているのだから、地元に戻った後にしっかりと仕事をできるような対策をしてからなら問題もないがそこまでのシステムを整えられるほどの連絡手段や地方自治や中央の権力も強くないので仕方ないと思う。
江戸にいた時に一度あった事があるが、そこまで厳しい人の印象もなかったが今回の改革を見る限りではかなり厳しくなっている。
風俗の取り締まりも厳しくなっている。江戸三座と呼ばれる歌舞伎座を浅草に移したり、211軒あった寄席を15軒と大幅に減らすなどの統制もされた。
授業で習った感じで行くと効果はあまりなく、不満を蓄積させただけだったという話もあったので不安である。社会の情勢が動く中で直弼様の周りにも変化はあった。
天保12年終わり頃から直弼様を訪ねてくる女性が一人増えた事だ。