第二十五幕
「失礼します。」
僕はそう言いながら、直亮様の部屋に入った。
西郷殿が慌てて
「どうされたんですか、貞治殿?
ご用ならまずは私がお聞きしますので・・・」
そう言いかけたが、
「よい。西郷、人払いを頼む。
貞治こちらへ座れ。」
直亮様は本を読みながらそう言った。
西郷殿が走って行き、数分もしないうちに鈴の音が聞こえてきた。
「それで用はなんだ?」
直亮様は本から目を離さずに聞いてきた。普段とは少し印象が違う気がしたが
「今回の養子の件、もう一度公正な判断基準のもとにやり直して頂けませんか?」
「大久保ならわかるが貞治が言いに来るとは思っていなかったぞ。」
「年齢を重視されるなら、最初から直恭様のみでよかったはずです。
直弼様を同席させる必要はなかったと思います。」
直亮は本を閉じて、真剣な顔で
「お前は知っているはすだろう。
直弼が養子に出されない事を。
それなのになぜわざわざ言いに来たのだ?」
「えっ?どういう意味でしょうか?」
「貞治、お前がこの時代に生きている理由や目的はなんだ?
いつの時代でも人にはその人の役割があり、人を導く者・踏み台とされる者・世の動きにかかわれもしない者と様々だ。お前が生きる理由や目的は今後のお前の生死にもかかわる事だ。」
「この時代に生きる意味ですか?
僕にはよくわかりません。」
「時代は自分が何もしなくても動くぞ?
やがて来る対話のために英語を自由に使えるお前という存在は必要となる。
お前が誰の横にいるかで日本の未来を変える事だってあるだろう。」
「そんな大した人間じゃないですよ。
そういわれるのであれば、直亮様の生きる理由や目的は何なのですか?」
「井伊直弼を作り上げる事だ。」
直亮様が何を言っているのか最初は理解できなかった。そして続けて直亮様が
「詳しくはなかったからこそ迷い、もがき、そしてついに見つけたのだ。
大器になりえる者を。歴史に名を残す人物を作り上げる事こそが俺の役目であり、彼の願いなのだ。」
「おっしゃっている意味がわかりません。
直弼様を偉人に育てる事が目的で直亮様は生きておられるという事ですか?」
「貞治、歴史は得意だったか?勉強はしっかりとしていたか?
この時代の何を知り、どのように時代が変わっていったのか詳細に知っているか?」
「えっ?いえ、あまり得意ではありませんでしたし、平均的な感じでしか勉強はしていませんでしたが・・・」
僕は聞かれている事の意味がわからないままだった。現代社会で聞かれたなら普通の会話だろうが、江戸時代でこんな事を聞かれるとは思っていなかった。
「貞治、詳しい話はまた今度とするとして、時代は変わるよな。
幕末・明治・大正・昭和・平成とお前がどの時代から来たのかは知らんが少なくとも、お前は井伊直弼という人物を教科書で読んで知っているはずだ。
井伊直弼は、このまま井伊直弼として存在し、そして幕末に導く偉人でなければならない。
直弼を養子にしない理由はそれだけだ。
成功や実績を積むだけでは人は優れた人間にはならない。
失敗し、後悔し、悔しさから学ぶことを糧に次の段階に進み、他の者よりも優れていくのだ。
養子に出さなかったのに同席させた理由もそれだ。
わかったなら、これ以上この事を蒸し返すな。」
「ちょ、ちょっと待ってください。
今の時代の名前を知っているのはなぜなんですか?」
僕が聞いたところで、遠くから鈴の音が聞こえてきた。
「悪いが、その話はまた今度だ。
江戸城に行かなければいけない用事が入ったようだからな。
私は井伊直弼を作り上げるために今後も試練を与え続ける。
これだけ覚えておけば今はそれでいい。」
直亮様はそれを言い残して立ち上がって部屋を出て行った。
僕は理解できない事を抱えたままその場から立ち上がる事も出来なかった。