第二幕
井上先生のところに反省文を提出しに行った。居眠りしただけで反省文を書かされることなど今までになかったことなので少し驚いたが、友達の話ではどれほど声をかけても全く起きなかったようなので、かなり心配をかけたようだ。
井上先生は反省文を受け取ると読みもせずに、机に置いた。
「最近、夜にしっかりと眠れてるか?
全然起きなかったから、よほど眠れてないのかと思ったぞ?」
「いえ、ぐっすりと眠れてますし、体調が悪かったわけでもないです。
そんなに寝てましたか?」
「授業の半分は寝てたな。
まあ、横の奴に起こしてもらおうと思ったんだが全然起きず、俺が呼んでも全く反応がなく、近くまで行ったら寝息を立ててたからゆすってみたけどダメで、最終的にプリントを丸めて叩いてみたら起きた感じだったからな。
あんなに熟睡されると授業をしてる側としてはかなり傷つくからな。」
「すみません・・・・・」
「よほどいい夢でも見てたのか?」
井上先生が冗談ぽく言った。僕は夢をぼんやりと思い出し、思い出せたところだけを井上先生に話した。
「なるほどな、睡眠学習というやつを俺はあまり信じてないが、寝ている間に聞いていることも記憶されるらしいからな。
歴史の授業につられてそういう夢を見たっていうのも間違いはないかもしれないな。」
「先生が話されていた井伊直弼って人は偉人なんですか?それとも大罪人なんですか?」
「開国を成し遂げた点では偉人ではあるが、安政の大獄のように自分に反対の立場をとった者を粛清した点では大罪人と呼ばれてもおかしくはないかもしれないな。
だが、安政の大獄については謎が多いらしい。
井伊直弼の本国であった近江彦根藩の記録の中に安政の大獄と同時期に大勢の犯罪者が処刑されたという記録があったという噂もある。
それが何を意味しているかはわからないし、たまたまその時期に処刑になった者がいたというだけの話かもしれないが、真実が何だったかわからないからこそ、歴史とは夢やロマンが詰まっていると俺は思ってる。」
「そんなことがあったんですね。」
「そう、だから歴史の授業で寝ることは許さないからな。
わかったな?」
「はい、すみませんでした。」
「よし、今日はこれでおしまいだ。
速く帰って、ぐっすり寝ておけよ。
他の先生ではこうはいかないぞ。」
「はい、失礼します。」
「気を付けて帰れよ。最近は事故も多いらしいからな。」
井上先生は笑顔で手を振っていた。僕は頭を下げて職員室からでた。
井上先生の話も分かるけど、従わない大勢の人を処刑したり、牢に閉じ込めたりするのは良くない。
それが国を動かしていたような偉い人ならなおさらやってはいけない事だと思う。
現代に生きる僕だからこそ、そう思ってしまうのかもしれないが、その行いの結果として桜田門外の変によって暗殺されてしまったのだから仕方がないと思う。
ただ、先生が言うように歴史の真偽は誰にもわからないからこそ空想が広がり、夢を見ることができるのだというのもわかるような気がする。
僕達が学んでいる歴史は、きっと井伊直弼に粛清された側の人達が残した記録によって作られている物だから井伊直弼を悪人のように語り継ごうとした人もいたはずだ。
授業の最後に井上先生も言っていた、安政の大獄で粛清された人の中に徳川慶喜がいたということを。
徳川幕府最後の将軍は自分に謹慎処分を下した井伊大老の事をどう思っていたのだろうか?
僕は決して歴史に興味があるわけでも、しっかりと勉強して来たと胸を張れるわけでもないけど、慣れない事をするものではないと僕は次の瞬間思った。
「パァー、パァー」
トラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んでくる。僕が見た限り、歩行者信号は青でトラックは明らかに直進して来ている。
信号無視をして、クラクションを鳴らすなんて何を考えているんだと考えている間にもトラックは目の前まで来ていた。
ああ、これは避けられない。このスピードではブレーキも間に合わないし、ぶつかったら助からないだろう。
僕は不思議と冷静だった。死ぬことを受け入れたわけではないが、僕がここで死ぬとは到底思えなかったからだ。
次の瞬間、確実に僕の体はトラックと衝突し痛みで目を閉じた。
井上先生の言葉が僕の頭の中でこだまする。
『気を付けて帰れよ ・・・・付けて帰れよ ・・・・れよ。』