第百八十八幕
桂の言う事が本当なら端午の節句つまり、3月3日に桜田門外の変が起こる。あぁ、ここに来てしっかり歴史の勉強を頑張っておけば良かったと後悔する。詳しく勉強しとけばと思うのもこれで何回目だと自分を攻めているが全ては遅すぎている。
ただ、覚えている事もいくつかはある。
それにこの時代で学んだ慣習もいくつかある。
確か勉強したりして覚えているのは、場所が江戸城の正門である桜田門であること、そして犯行の一味が倒幕派の人間であったことだ。一説には水戸の脱藩浪士で構成されていたというのもあると言っていた。
この時代で学んだ事として、重職に就く人は節句に将軍に挨拶したりするために登城するしきたりがある。
つまり、直弼様がいつ登城するかを知るすべがないものからすれば確実に登城する日を狙うのは間違いない。
問題は直弼様が自身に起こる何事に関しても受け入れる覚悟をされている事だ。それは僕が歴史を変える事を良しとしない事を意味している。
僕としては歴史を変えてでも直弼様を守りたいが、直弼様の意向を無視してまでそれを成して良いのかというジレンマにも苛まれる。
直弼様が彦根で詠んでいた和歌で、直弼様は今の立場でいる事に苦労されている。そうなるとその立場や苦難からの解放を望んでおられるのかもしれない。
病気で、末期になり痛みに耐えかねた人が安楽死を望むなんて話を現代で聞いた事がある。これが今の直弼様の心情と同じなら安楽死の問題ほど難しくもない。なぜなら僕が何もしなければ直弼様は死ぬ事が決まっているからだ。それでも死なせたくないと思うのは安楽死を望む人の家族の心情に近いのだろう。ただ生きているだけで嬉しいと思う気持ちや少しでも側にいたいと思う気持ちなのだろう。実際にどうかはわからないけど近い感情を探すならそうだろう。
桂が言っていたように配役を変えた演劇のように歴史を繰り返しているとして、誰が通った歴史が僕の知っている歴史なのかという疑問をいだいた。
おそらく桂の言い方で言うと二・三回程度ならあのような言い方にはならないから数えきれないほどの桂小五郎の人生をおくっていたのだろう。そうなると初回の歴史が正しい歴史なのか、どこかの段階で一番よかったストーリーを歴史としたのか等と色々と考えてしまう。
僕が歴史を作ったとして、何か罰を下されるのかはわからないけど僕なりの歴史を作って僕が納得できるならその後でどうなっても良いなと思う。
とりあえず、江戸についたら独断で水戸の脱藩浪士を捕まえて実行犯になりえる人を捕まえていけば桜田門外の変は起こらないのではないか、かなり強硬的で無理がある話だ。それでも何かのきっかけになれば良いなと思った。