第百八十四幕
「主膳殿、京都でのお勤めご苦労様でした。時勢がら上手くいかない事もありでお疲れでしょう。」
京都から直弼様に挨拶に来た長野主膳を出迎えたのは岡本半介だった。一時期は直弼様に対して反抗的な発言が多かったために藩の重役から遠ざかっていたが、嫡子の直憲様の教育係だった事もあり最近は表にも出てきている。貞治の弟子だったから死罪を免れたという噂もあったが、実際に優秀なこの男をあそこで殺せば多くの藩士の恨みを買い、藩が分裂する恐れもあった事から死罪にする事は不可能だっただろう。そして嫡子の教育係という期限のある裏方職にする事で藩政への復帰も確約されていた人物。なぜ出迎えにこの男が来たのか長野自身にまったく見当がつかない。沈黙が長くなりすぎたと焦り長野が
「あ、ああ。岡本殿もお出迎え感謝いたします。貞治殿や宇津木殿が出てこられると思っていましたが、何かありましたか?」
「直弼様の用で側付きの方々が出られておられたので、誰も出迎えがいないのもと思い、私が来させて頂きました。直弼様からは主膳殿が来られたらお部屋にお通しするように申し付けられておりますので、ご案内いたします。」
岡本の丁寧な扱いに多少の不安も感じたが案内につき従った。今は水戸におられるサイショウ殿から水戸藩士に怪しい動きがあるとの話を聞いていたため、この先を考えるなら早めに次の拠り所を探した方が良さそうだが、手厚くもてなされては言い出しにくくなる。
しかもこの時期的に次の藩主となると直憲様の教育係が出迎えに来たのに職を辞した場合、最悪の展開としては直弼様に何かあった時に私も共犯として彦根藩から追われる立場になる可能性がある。
水戸藩士がいつ動くかはわからないがそこまで先の話ではないだろう。だがしかし、今日ではないのは確かだ。
京都で多くの繋がりができた今となっては、公家から教えを求められていると含みを持たせながら、そちらに腰を据えたいと言えばそこまで角が立たず、なおかつ、有力な公家の名前を出せば井伊家との繋がりを生む好機だとも説明しよう。もう20年近い付き合いの直弼様ならある程度こちらの思惑も悟ってしまう可能性があるが、そこでグダグダと人ではない。きっと………うまくいく?
何か引っかかるものがあるが残された時間を考えるなら急ぐべきだという焦燥感が判断を鈍らせ、後に大きな後悔をする事にこの時点では気がつけなかった。