第百八十三幕
彦根の屋敷から少し歩くと直弼様と共に過ごした埋木舎がある。夜中なので中には入れないため入り口の門の前に立った。特に意味はない。
この時代に来てから早いもので26年が経とうとしていた。別に歴史に詳しいわけでもない成績も中の中くらいで、小さな頃から英会話をしてたから英語が話せたり、得意だったから学校の成績も英語だけ特別良かった程度の普通の高校生だった。もう友達は名前も顔もおぼろげにしか思い出せないし、親の顔も今何歳になっているのかもわからない。この時代ほど簡単に人が死ぬこともなかったとは言え病気やそれこそ交通事故にあってもう死んでいる可能性もある。現代の事がだんだんと薄れて消えていこうとしていても、僕に向かって突っ込んでくるトラックの様子だけは消えてくれない。
安心できる事と言えば、この時代にいる限りトラックにひかれる事はないという事だけだ。
彦根藩に戻ってから僕がしている事と言えば、多くの家臣の前で直弼様にあれをした方が良いとか、これをしてはいけないと頻繁に言う事だ。
直弼様も何か意味があって僕がそんなことをしていると考えてくれているから特に怒られる事もないし、真面目に変えなければいけないと思う事も織り混ぜているため、的はずれな発言をしているわけでもない。
さすがに自分でも吹き出しそうになる屁理屈を言ってる時もあるがそれも流して貰えている。
直弼様に押し寄せているのは政治的な課題ばかりではない。自分達の利益のためにあれこれ言う幕臣達からの政策立案、過去の権威に拘り新しい取りくみに文句しか言わない大名達。人は宝でもあるが、そのすべてが価値のあるものではない。過去に価値があったものもその時代の需要に答えられなければ、どんな芸術品もゴミでしかない。直弼様に押し寄せている波をできるだけ排除していく事が僕の仕事だと思っている。
今うてるだけの布石は置ききった。それがうまく効果を発揮するのかは僕にもわからない。
でも、確実に運命のその日は近づいてきている。
18歳の何もできなかった高校生は過去に来て何ができるようになっただろう。小さい頃に夢見た未来もこの時代に来ては何も叶わなかった。僕がなりたかったものはなんだったのだろうか?そして僕は大人になって何者になれたのだろうか?
いや、僕はこれからどんな事件が起きようとそれになるための準備をし続けてきた。
あの日先生が僕らに聞いた『井伊直弼は英雄か大罪人か』の答えを僕は知っている。
いや、僕が答えを決めて見せる。英雄と語り継がれるかはわからないが絶対に大罪人にはしない。
直弼様と共に過ごした埋木舎に僕は固く誓った。