第百八十二幕
1860年正月
直弼様が親交のある狩野永岳を呼び、正装姿の肖像画を書いて貰っていた。芹川のほとりで自分の生きた証を後世に残そうと話していた事が繋がったのかもしれない。
肖像画を書いて貰うことが珍しい事かと言えば人によるから何とも言えないが少なくとも関係はあるだろう。
直弼様もただ座っているのが退屈になってきたのか
「和歌でも考えるか。」
「僕ではあまりお役に立てませんよ?永岳殿も集中されてますし?」
「いや、別に連歌をしたりする訳じゃない。
できあがった肖像画と共につける歌でも考えようかと思ったのだ。どんな内容が良いと思う?」
「今のお姿を残される肖像画なのですから、今の直弼様が頑張っている事や考えている事などを歌われてはいかがですか?」
「そうだな。よしそれでいこう。」
直弼様はそういうと少し黙って考えられていた。
数分後、直弼様がひらめいたようで、
「貞治、代わりに書き留めてくれ。後で清書するが思い付いたのを残しておきたい。」
「承知しました。」
僕は紙と筆を持ち直弼様に向かって頷いた。
「では、いくぞ。
『あうみの海 磯うつ波の いく度かは 御代のこころを くだきぬるかな』…………どうだ?」
「書き留めました。どのようなご心境の歌なのですか?」
「別にたいしたものではない。
ただ、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために何度もこころを砕いてきたが、それも国の平和と安心のため国政に全身全霊を尽くしたので悔いはないという事だ。合議に置いて不本意な事もいくつもあった。
大老と言う役職のために責任をおってもきたが、どのように恐れられようとも私は国を守る決断をした事を後悔はしていない。」
「立派な歌ですね。」
黙々と描いていた永岳が言った。
「ありがとう。」
「こちらの肖像画はどちらで保管されますか?」
僕の質問に直弼様は少し考えてから、
「井伊家の菩提寺でもある清涼寺に頼もう。
お寺の方が何かあった時でもぞんざいには扱われないだろう。それに寺の方が後世に残りそうだしな。」
「そうですね。では、そのように取り計らいます。」
僕が言うと直弼様はにこやかに笑った。僕はこの肖像画が現世でどうなったのかを知らないがしっかりと残っていて、直弼様の姿が残っている事を願うばかりだった。