第百八十一幕
「ここも懐かしいな。」
僕は直弼様と二人で護衛の藩士もつけずに芹川の川沿いに来ていた。直弼様が柔なか笑顔を向けて言った。
突然、散歩に行こうと誘われたため本来ならつけるべきの護衛も今はいない。今頃、城では大騒ぎになっているかもしれない。
「貞徹や善八郎と出会ったのもこの辺でしたよね。」
「色々な思いでのある場所だ。藩主になろうが大老になろうが私にとっては埋木舎に次ぐほど大事な場所だろう。ここで貞治を未来に帰してやれない事を謝った事もあるな。」
「そんな事もありましたね。」
僕は短く相づちをいれた。昔話でもしたかったのかと次に続く言葉を待ったが直弼様はけやきの木に手を当てて目をつむられていた。そして間を空けてから
「この木が立派に大きくなった頃が貞治の時代だったな。」
「未来にもこの木があるかはわかりませんが大きくはなってそうですね。」
これも本題ではないだろう。また少しの沈黙があり、
「なぁ、貞治。」
「何でしょうか?」
「私は死ぬだろう?」
僕は少しの戸惑いを表情に出してしまった事を後悔したがそれも遅かった。直弼様は人の表情を良くみておられる。大勢の幕議の中で人の表情を読み取る事は腹芸に優れた猛者を相手にする上での重要スキルだ。
直弼様にとって突然降りかかってくる無理難題を自分達の利益のためにあれこれ言うやからや表向きは協力的でも裏では倒幕を目指している藩の者達を相手に少数で立ち向かっている。その苦労は火を見るように明らかだ。
僕の沈黙が答えとして受け取られたのか直弼様は
「水戸と薩摩が何やら企んでいるから身辺に気を付けろと間部殿が言っておられた。私の人生は……意味のあったものなのだろうか?」
「直弼様は人生の意味をお求めですか?
それなら僕や長野殿、宇津木殿や善八郎にもその意味をお聞きください。
おそらく皆が『この身は直弼さまのためにある』と答えるでしょう。私は神や仏は信じてませんが、身近にいて我らを導いてくれる直弼様は信じられます。
突然、時代を越えて右も左もわからない僕に居場所をくれた直弼様が僕にとっては神であり仏なのかもしれません。他の直弼様に従う者も理由は違えど直弼様がいたから今の自分があると思っているはずです。
直弼様はきっと『そこにいる』事だけで意味があるんですよ。」
「なるほど生きているだけで人には価値があるという事だな。それなら私は長生きしないといけないし私がいた事を後世にも残しておかなければいけないな。」
「そうですね。狩野殿にでも肖像画を書いてもらいますか?」
「それはいいな。帰ったら連絡して貰おう。
………貞治」
「何でしょうか?」
「私の未来がどうなろうとお前は無茶するなよ。
お前が私に恩を感じてくれているように私もまた何もなかった私の側に常にいてくれたお前に感謝している。
ただの部屋住みとして暗闇の中を歩いていた私の手を引いて導いてくれたのは他でもない貞治だ。
私は恩ある者を私と共に散らしたくはない。」
「直弼様、僕は…………」
言いかけた所で複数人の走ってくる音が聞こえた。その先頭に見知った顔が焦りを全面に出して見えた。
まだ距離があるのに大粒の汗を流しながら善八郎が
「直弼様、貞治殿こちらにおられたんですね~」
走りながらの大声が響き渡る。
僕と直弼様は顔を見合わせて必死に走ってくる親友の事を笑った。まだ自分にできる事はきっとある。
来年も再来年もこうして笑い合えるように僕は覚悟をより一層決めたのだった。