第十八幕
僕は彦根藩屋敷の玄関口に座り、直弼様が木刀で素振りをしているのを見ていた。
そして、
「この広いお屋敷で素振りをしてもいいのがここだけなんておかしくないですか?」
「なにか事情があるのかもしれないであろう?」
「例えばどのようなですか?」
僕の問いに対して直弼様は素振りを続けながら、
「そうだな・・・門番に休みをやりたいと思っていたら、たまたま武芸の鍛錬をしたいと言って来た者がいたとかではないか。」
確かに直弼様が素振りを始めた頃から門番の人は休憩に行ってまだ帰ってきていない。
「西郷殿にもう一度聞いてきましょうか?
門番を任されているならそれなりの対応が必要でしょう?」
僕が言ったところで直弼様は素振りをやめて手拭いで汗を拭いてから僕に向かって、木刀を投げた。
僕がキャッチすると直弼様は
「西郷殿も直亮様も我々を試すのがお好きなようだからな。
これも何かの試練なのかもしれないぞ。」
「そうですね。それでなぜ僕に木刀を?」
「主君が励んでいるのに従者が座ってみているのはどうなのだ?
立ち合いをしたくなったのでな。相手を頼む。」
僕は知っている。直弼様は僕が剣術が得意ではないからと言ってスパルタで教えてくるのだ。
このスパルタ教育のおかげで、彦根にいた頃は弘道館の同年代にも負けないほどにはなっていたが、直弼様には遠く及ばない。でも、ここまで言われたら相手する他ないため立ち上がり木刀を構えた。
直弼様も木刀を構えて、直弼様の「始め」の一言で僕から打ち込んだ。
上段からのふりおろしに対して、直弼様は木刀を横に構えて受け止めた。現代人の僕と直弼様では体格が違いすぎるので力で押し切れるかと思った瞬間に直弼様がどう動いたかわからないが僕は弾き飛ばされていた。
二・三歩後ろに下がって体勢を立て直すと既に直弼様が横なぎに一閃してきていたのでわき腹のあたりで木刀を縦にして受けた。重い一撃だったが何とか防ぐと直弼様が距離をとった。
僕は横で木刀を構えて突っ込み、一撃を入れる瞬間に斜め上段からの一撃に切り替えた。
僕としてはフェイントのつもりだったが、直弼様には軽くあしらわれてしまった。
その後も攻防を続けて、お互いに汗びっしょりになっているが普段からの感じではまだ終わる事ができない。次の打ち込みを考えていると、直弼様の方が動いた。
中段の構えから素早く上段の構えに変え一撃を振り下ろそうとした時、
「そこまで!」と声がした。僕と直弼様が声の方を見るときれいな着物を着た男性とその後ろに大柄の男性そして数人の部下であろう人達が続いてきた。きれいな着物の男性が
「このような場所で喧嘩していた理由を申してみよ!」
どうやらはたから見れば僕らの稽古は木刀で喧嘩しているように見えたようだ。
威厳のある声に僕が押されて黙っていると直弼様が
「これは失礼いたしました。
これは喧嘩ではなく、剣術の稽古でございます。」
「ふむ、その方も同意見か?」
「はい、その通りです。」
僕に聞かれると思っていなかったので少し焦ってしまったが、何とか納得してもらえたようだ。
「そうか。
井伊直亮殿はご在宅か?」
僕と直弼様は顔を見合わせたが、直亮様は江戸城に行かれている事が多く僕たちに居場所を教えられることもないので、直弼様が
「申し訳ありません。
我らには直亮様のご動向はわかりません。」
大柄の男が身を乗り出してきて、
「小僧、門番のくせに家の主が在宅かもわからぬとはどういうことだ!」
そう叫んで、腰の刀に手を当てた。僕もとっさに刀に手をやると直弼様が制止し、
「貞治よせ!
申し訳ありませんが、我らは門番ではございません。
私は彦根藩藩主・井伊直亮が弟で直弼と申します。
こちらの者は私の従者ですので、直亮様がどちらにおられるのかも存じ上げておりません。」
大柄の男の顔が少し青ざめた。大名の弟に失礼な物言いをしたのだからそれだけで処罰もあり得る。
きれいな着物の男が
「それはそれは家の者が失礼をいたしました。
私は老中・水野忠邦と申します。私の顔に免じてこの場はお許しを願いたい。」
僕は驚いた。老中水野忠邦は天保の改革をした人物で歴史の教科書にもでてくる人物である。
この時代に来て、2人目の偉人にあったと思うと芸能人に街中で会ったくらいの感動を覚えた。
「こちらも失礼を致しました。
つい先日、江戸に来たばかりで水野様のお顔を知りませんでしたので対応が遅れてしまいました。
貞治、西郷殿か誰かを探して直亮様がご在宅か聞いてきてくれ。」
「承知しました。」
僕は慌てて走り出した。




