第百七十九幕
何がおかしい。
吉田松陰の処刑もその他の死罪となった者や獄死した者達も歴史どおりに進んでいるはずなのに何か漠然とした不安感が残る。桂小五郎が松陰の遺体を最初の墓地である回向院に運ばせた事も確認した。
斉昭は自分が知っている史実通りに事を運んでいるはずなのにパズルのピースが少しずつはまらないような不快感があった。「まぁ、いいか。」と引っ掛かりはするが今考える事でもない。実際にこちらのストーリーが崩れる事もなく流れが進んでいる。まさか貞治が罪人の顔を隠して処刑を行うとは思わなかった。
偽物にすり替える可能性も考えたが松陰が処刑前に『諸君、狂いたまえ』と言った事から、この可能性も消えた。長州藩士からの反発が想像以上に少ないが大した問題ではない。もうすぐ井伊直弼は人生最後の里帰りに出かけるだろう。そしてとうとう井伊直弼の幕も終わる。
現場にはいけないが桜田門外の変はもう4ヶ月後に迫っていた。
ここから1858年の8月10日に水戸藩が受け取った戌亥の密勅(朝廷から幕政改革を行えという命令)を幕府に返還するように求める動きがあり、それに反対する過激派の者達の不満をあおり、桜田門での襲撃に繋がる。
色々と個人的には納得しないが史実でそうなっているからと飲み込んでいる事や伝わっていないが実際には予想外の事などもあった。
薩摩が水戸を利用している事について、長年水戸藩のために働いた身として、すべての責任を水戸藩に押し付けようとする姿勢には思う事がないわけではない。
転生者や転移者が何人かいる事から薩摩や長州、土佐にもそういう人間がいるのではないかと探ってみたが見つける事はできなかった。となると、これも史実として残っている事がすべてなのだから私は調整者として受け入れなければいけない。予想外だったのは京都に出入りしては朝廷側に圧力をかけながら調和も保てている長野主膳だ。私の教えた情報で成り上がっているとばかり思っていたが、本人もなかなかに有能なため取り扱いが難しくなっている。井伊直弼が桜田門外の変で没するのは避けようがないと思っているし、そうなるべきだとも思っている。だが、問題なのは貞治の活躍のせいか直弼に対する幕臣や民衆の評判があまり悪くないというところだ。確かに一部の五手掛(寺社・町・勘定奉行に大目付・目付を加えた刑事裁判の形式)の一部に息のかかった者を入れてより重い罪にしたり、処罰を厳しくした者がいたが、これに関しても幕府の威厳や体制を維持するために致し方ないとまで思われる風潮が出ている。
予想外ではあるが、これも直弼の死去後に何とでも印象操作する事ができるので問題はない。
直弼の里帰りが終わり、端午の節句が過ぎれば私の役目も終わる。何か忘れているような不安感は残っているが役目が終わればゆっくりと隠居生活が待っている。
定年退職を前世では迎えられなかったが、もうあと少しだと思うと頑張れそうな気がした。