第百七十七幕
「まったく、私は弟子には『諸君、狂いたまえ』と言っていたのに、私は未来の事ばかり考えて何もしてこなかったな。」
松陰は伝馬町の牢屋敷の狭い空を眺めながら言った。
「それはどういう意味だったんですか?」
僕はあまり吉田松陰という人物について詳しくない。
学校で習う吉田松陰は長州藩士で松下村塾で多くの維新を成し遂げた志士を導いた人物でしかない。
その詳細まで知らないため、彼がどのような言葉で人を導いたのかも知らない。
「考えてばかりではなく、行動しろという意味で使ってました。中には何も考えずに行動ばかりの弟子もいたのでどこまでこの言葉が伝わっていたかはわからないですけどね。」
松陰は夜空を見ながら寂しそうに言った。
「明日、あなたの身代わりが斬罪になります。
その後は、一度髪を剃って貰って僧侶に扮して彦根に向かって貰います。」
「ああ、今日は1859年の11月20日という事ですか。
牢にいると日付感覚がなくて困りますね。承知しました。ああ、辞世の句を詠んでおきますから後で公表してくださいね。上手いこと詠めたら弟子に誉めて貰えるでしょう?」
「そういうものですか?」
僕は相変わらず和歌が苦手でそういう詩や歌にはまったく関わってきていなかった。多くの明治維新に関わる者達が見届けたと言われる吉田松陰の処刑は翌日に迫っていた。
1859年11月21日、吉田松陰が処刑されたとされる日
僕は信頼の置ける部下と松陰の身代りとなる者を連れて武蔵野に移動した。何の因果か身代りとなるのは僕が捕まえた役人だった。
「脇貞治、貴様、こんな真似をしてただで済むと思っているのか?幕府に逆らった者の身代わりで処刑などふざけるな!」
「あなたが誠実に真面目に幕府の役人として働いていればそのような立場になることもなかった事は前提でお考えになられたのか?それにこの計画はずっと練ってきたものです。これに関わるすべての責任を私がとる覚悟は持ち合わせていますよ。」
男は僕の覚悟を感じ取ったのか周りを見回して他の者の表情も伺っていたが、この場にいる者はみんな覚悟の上で協力している者達ばかりだった。男は悟ったように
「諸君は狂っている、諸君は狂ってる…………」と呟いた。
まだ彼には吉田松陰の変わりになる事は伝えていないのにこれも何かの因縁かもしれない。男はその後もずっとそう呟いていた。
「この者は長州藩士、吉田松陰。老中、間部詮勝殿の暗殺計画を主導した罪により斬罪とする。」
代官が罪状を読み上げた。僕は処刑される男を見た。
男は未だに呟き続けていたがその声もかすれてきていた。
「諸君………狂って……いる」
僕には「諸君は狂ってる」と言い続けているように聞こえたが、松陰を知る者達の耳には『諸君、狂いたまえ』といっているように聞こえたようだ。
男の処刑が終わり遺体を運び出したあとに泣き崩れる男を数人確認した。彼らがきっと明治維新を成し遂げる人物達なのだろうと僕は特に感情もなく思った。