第百六十八幕
落ち込んだような、怒気を含んだような表情で目の前に松平慶永が座っている。歴史どおりなら慶永は朝方に彦根藩邸を訪れ直弼に違勅条約の責任や将軍継嗣についての話で出向き門前払いされた事だろう。老中達も幕権擁護派で固められ一橋派は含まれていない。長野主膳にそうするようにと進言させたのが上手く進んだ結果で思惑どおりである。慶永は慶喜のために動き回ったくれて感謝しているがこの男の退場の時が来た。
「慶永殿、井伊は臆病者ですから慶永殿と一対一で対面する事を恐れておるのでしょう。屋敷に行くだけではあの者を糾弾するのは難しいでしょう。」
「そ、それではどうすれば良いのですか?」
「これより、直接、江戸城に乗り込み公の場で責任を追及しましょう。朝廷側にも直弼を批判する者がいることを示せますから無駄にはならないでしょう。」
「しかし、本日は登城日ではございません。そのような勝手を将軍がお許しになるでしょうか?」
「慶永殿の幕政の正常化に対するお覚悟はその程度という事ですか。我らが今動かずしてどうやって井伊の暴走を防ぐ事ができましょうか?」
「ま、誠に仰る通りです。ですが、二人だけでは井伊殿の顔も見れずに終わるのでは?」
「確かにそうですね。それなら水戸藩主の慶篤と尾張藩主・徳川慶恕を引き連れて参りましょう。ただ、この者達は私の身内のようなものだから別方向からも批判をしている事を意識付けしたい。
慶永殿は我々とは別に登城してくだされ。私が声をかけたから動いた二人と見られるなら、打ち合わせなしで慶永殿も動かれたくらい今回の違勅条約は多方面から批判されていると他の大名、老中に思わせることができるでしょう。」
「なるほど、承知いたしました。」
「私は直弼に腹を切ってでも責任とれと迫りましょう。
それほどに重要な事ですからね。」
「承知いたしました。それではまた後で。」
慶永が帰っていった。
「ふう、こちらも準備していくか。五時間は待たされたあげく一蹴されに行くとは何がしたいかわからんな。」
斉昭は重い腰をあげた。
1858年(安政五年)6月23日、後に不時登城事件またはおしかけ登城と呼ばれ、安政の大獄の火付け役となった事件は斉昭らが4時間に及ぶ長時間を昼御飯も出されること無く待たされたあげく井伊直弼が事前に準備していた『致し方なく条約に調印した』証拠の数々によって論破され、尾張藩主に隠居、水戸藩主に一定期間の登城停止、斉昭も一定期間の登城の禁止などの罰を受けける事になった。そして松平慶永も隠居となり長年一橋派を支えた男は政治の表舞台から去る結果となった。