第百六十五幕
だが、僕の予想は少し外れた。
井上・岩瀬の二人が直弼様との面会後のそのままの足で米艦ポーハタン号に赴き、ハリスと日米修好通商条約十四ヶ条と貿易章程七則に調印してしまったのだ。
速すぎる調印に直弼様の無断調印の烙印を押される事を避ける策が上手く回らない結果になった。
六月二十一日、幕府は堀田正睦・松平忠固・久世広周・内藤信親・脇坂安宅の五老中が公用文書の郵送制度である宿継飛脚を使って、公家と武家の意志疎通を行う重職の武家伝奏の広橋光成・万里小路正房に文書を送った。
その内容は徳川三家以下の諸大名の答申書をそえて叡慮を伺うべきだったがやむを得ない事情で米国との条約に調印した旨を伝えて、別書でこの度の処置をしていなければ英仏軍艦が渡来して清国の二の舞になる恐れがあり、直ちに調印すれば米国使節がいかようにも調停すると申し出たため臨機応変に処置した旨を述べたものだった。ただ、これに関しては悪手であったと僕も思ったし、条約調印にも同席していた岩瀬忠震もこの事を知って松平慶永に書簡で抗議したらしい。
調停への奏聞を飛脚に任せるのではなく、しっかりとした使者を出すべきだったと思う。京都や朝廷を軽視しているように見えても仕方がないからだ。
とにかく条約の調印が終了したので、継ぎの段階へと時代が進んでいる。この五老中が書簡で奏聞した二十一日には堀田正睦と松平忠固の両名の登城を停止して、二十三日には両人の老中職から罷免した。そして、直弼様は前掛川藩主・太田資始、鯖江藩主・間部詮勝、西尾藩主・松平乗全を老中に再任して、太田資始を老中首座に任命した。堀田正睦の罷免は予定どおり勅許を取れなかった事の責任を含めて条約調印全体の責任を負わせた形でこれに関して将軍家定の考えでもあった。
ただ、松平忠固に関しては自説を主張して幕閣との協力を欠いたのと将軍継嗣の問題時に一橋派に傾いたりと直弼様と権勢を争う存在になっていたために直弼様から家定に提案したものであった。こうして新体制へと移行した。