第百六十四幕
「井伊大老、もうアメリカ側の交渉を引き伸ばすのも限界です。勅許を待っていてはアメリカに攻め込まれます。幕府の力ではアメリカと戦っても勝てませんぞ?
いかがされるおつもりですか?」
「私も至急に締結をしないといけない事は重々承知しています。ですが、朝廷いや天皇の腰が重い。
それを説得する役目の堀田殿も機能せず、大変、遺憾です。それにどうやら一橋派が慶喜殿を将軍継嗣に指名されなかった事でへそを曲げたようでしてね。
条約締結のための合議に松平慶永殿を筆頭にご協力頂けない状態なのです。問題を先送りにして日本を危機に陥れている事に思い至れない浅はかな者と言わざるを得ないでしょう。今しばらく持ちこたえて頂きたい。ご苦労をお掛けしますがよろしくお願いします。」
直弼様が話されているのを僕は障子の裏で聞いていた。六月十九日、ハリスとの条約締結期日が七月二十七日と残り一ヶ月くらいに迫った中で、下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震の二人が来ていた。この面会前には諸役人を集めての評議が行われ、直弼様は勅許を得るまでは調印しない立場を崩さなかったが、松平、堀田両閣老は即時調印をすべきと主張していた。
実際にハリスと下田で会談していて評議には参加できていない二人が帰府したタイミングで直弼様が呼び出した形で危機感の強い井上清直が詰め寄った形である。
「ハリス殿が待てる期間も残り少ないようです。
清国の状況をかんがみて強く出てきています。
我々も対応に苦慮した上で待っていただいているので、早急に決断をお願いします。」
「わかってはおります。ですが、勅許を得るまではできるだけ調印を延期していただきたい。天皇が許さない条約では後の軋轢のもとになり得ます。幕府の政治を維持するための措置ですので、よろしくお願いします。」
井上は苦々しい顔で
「では、万策尽きた場合には調印してもよろしいでしょうか?」
「その時は致し方ないでしょう。」
直弼様の言葉を聞いて安心したように帰っていった。
彦根藩邸に戻ると御側用人の宇津木六之丞がこの話を聞くと
「殿が調印に慎重な意見を述べられても、交渉が行き詰まった場合は致し方ない、という言質を岩瀬らに与えられた事には、幕議を経ているとはいえ、諸大名の意見が入ってないので、もし調印が決行された場合は朝廷側を怒らせ世間の批判をあびるのではありませんか?」
前もって僕と直弼様の間でその考えには至っていたが、ここでは気づいていないふりをして貰っておいた。
調印が避けられないなら、直弼様が直接関わらない所で調印が決行される事が望ましかった。そこを周囲に悟られないために演技をいれて貰った形ではあった。
堀田殿には早急に勅許を得て貰うために改めて京都に向かって貰ったりと手も打ってある。
今のところ僕の予定どおりに進んでいるように思った。