第百六十二幕
「斉昭殿、井伊の勝手をこれ以上放って置かれるおつもりか?」
勢いよく言ってきたこの男は誰だっただろう?慶喜が将軍継嗣とされなかった事で私の所に文句を言いに来る頭の足りない者が後を立たない。私に言ったから将軍家定が考えを変えるとも、慶喜が将軍になる順番が変わるわけでもない。そもそも変えるつもりがない私に何を言っても変わらない事すら思い至れない程度の者の名前など覚える価値もない。
「大変、遺憾ではあるがもう決まった事。
大老職の重責の中、井伊殿も試行錯誤なのでしょう。
私に陰口を叩いている暇がおありなら井伊殿を説き伏せるほどの対案をお考えになる方が有意義なお時間の使い方かと思いますが?」
「はっ?えっ?いや………それは………」
まったく言い返す事もできないのか。斉昭はため息をついて短く言った。
「私も暇ではありませんのでお引き取りください。
私を煩わせた事だけはしっかりとお記憶頂いた上でね。」
男は真っ青な顔で部屋を出ていった。「はあー」っとため息をつくと家臣の一人が入ってきて
「ご報告にございます。」
「良い、話せ。」
「浦賀にて海防掛の何人かが吉田松陰と接触しております。接触されたなかに斉昭様の息のかかった者がおりましたので、問い詰めたところ条約の調印について、アメリカの要求をはじき自らの作成した内容での条約の締結を促すようにとの事で大金を渡してきたようです。」
「その内容は?」
「1つ、アメリカからの輸入物には高関税をかける。
1つ、日本国内でアメリカ人が粗相を起こした場合は日本の仕来たりにより処断する。」
「なるほど、関税自主権も領事裁判権も譲らない内容か。それをどう受け止めている?」
「こちらが強く出れる要素がないため非現実的だと述べた所、松陰はアメリカのハリスが言うようなイギリスとフランスに対する条約の基準作りなら厳しいものを作って、それが周知できたあかつきにはアメリカを優遇する条約の再締結を持ちかけると言っていたようです。」
「なるほど、アメリカが厳しい条件で締結すれば、他の国もそれと同等または近いところでしか締結しにくい。その基準作りに協力する見返りに優遇を持ち出すか。
アメリカが交渉で負ける国を相手に強く出れない国もあるなら悪くはないし、艦隊の対抗をアメリカにして貰うところまで策に組み込まれているならかなり良いだろうな。しかし、アメリカの利点が少なすぎる。
ハリスは意地になって自分達の内容を譲らないだろうから決裂だな。」
「時期をずらせば、我が国にとっては良策と言えるでしょうね。」
「条約締結交渉が始まってすぐに提示できていたら、この上ない策だったろう。だが、ここまで交渉を伸ばしハリスの機嫌を損ねてしまえば愚策と言わざるを得ない。」
「どう対処致しますか?」
「こちらがする事など何もない。追い詰められた海防掛も松陰の策に乗る余裕も検討する暇もない。そうなると金だけ貰って無視するやからがほとんどだろう。
ああ、そうだ。
浦賀で吉田松陰が井伊大老の批判をしているとの噂を流せ。今はそれで十分だろう。」
「承知いたしました。」
やはり、松陰は自分の目指す未来の実現に動いた。だが、何もかもが後手後手で結果に直結しない。だからこそ、転生者の松陰は捨て置いているのだ。奴には何もできないと判断したあのときの自分は正しかったと再認識するような情報だった。