第百六十幕
五月に入ると直弼様が将軍の家定から独りで呼び出される事が増えた。どうやら将軍の中では将軍継嗣について南紀の慶福に決めたようだ。ただ、一橋派の動向も気にして発表時期を色々と考えてからにするようだ。
そんな中、条約・継嗣の件を朝廷に奏上する上使を決定する必要があった。最初は会津藩主・松平容保を直弼様は推していたが、家臣から容保では関白との直談判が叶わないなどの理由から反対が起きた。京都留守居役からは直弼自身が上使となるべきだという意見も出た。直弼様も一度は自ら出向く事も決心されたが宇津木六之丞が直弼様の反対派の陰謀を危惧して勘定奉行の石谷穆清を通して上使を断念させた。直弼様は仕方なく京都所司代を更迭して元所司代の小浜藩主酒井忠義を起用したが掘割問題等で苦しめられた忠義の起用は断腸の思いだった。
だが、これにより経験も豊富な忠義が補佐に回れるため若輩な容保でも上使の内定を出す事ができた。
これと同時期に伊達宗城が直弼様の元に来て松平慶永を京都に遣わして勅問に奉答させるように促してきた。
直弼様も言を左右して承服しなかった。この日の時点で松平容保を上使にする事が決まっていたわけで、この九日後の五月二十二日に再度、伊達宗城が来た時には京都に既に内定も伝えていた。
一橋派が慶永を上京させようとしたのも朝廷に慶喜を直接売り込むことが目的だとわかっていたために直弼様は承服しなかった。そして五月末には各大名に求めていた勅諚の答申書もほぼ出揃ったために六月一日には溜間詰等に説明が行われ、翌二日には将軍継嗣の内容を朝廷に奏請し勅裁を仰いだ。だが、この時点で誰を継嗣にしたかは明かさないままになっていた。
これは継嗣を決めても実権を家定が持ち続けるための措置で天明年号時の家斉が将軍職を家慶に譲った後も大御所として実権を握った例に習ったものだ。
今回に関しては誰をとうい部分を隠すことによって対立する派閥にどちらがなるかを明言しないことにより妨害を防ぐ意図があったと思われる。
そして六月十八日に正式に慶福を将軍継嗣とする事が発表されるのが決まった。