第百五十四幕
堀田正睦はかなり焦っていた。
天皇との謁見を終えてから京都で色々話を聞いていたら勅許をえるのはかなり難しい事だとわかってきた。
もう4月となっていたが、天皇の意見を変えるために奔走していた。
集めた情報では、彦根藩主の井伊直弼の側近の一人の長野主膳が開国について致し方ない事情を説明して回ったいたため関白の九条氏はやや心を動かしたようだがあくまで朝廷側の意見を支持する姿勢だったらしく、鷹司太閤は九条氏の姿勢を批判していたらしい。鷹司氏は水戸の斉昭殿と親しいため条約を可とした幕府側の人らしかった。結局、外交に関しては関白に一任する形になったらしい。その関白も長野主膳の説得が続くうちに幕府支持に傾いたらしく、最初の謁見時に天皇に奏上する時にはこちらの味方のようになっていたらしいが、それも天皇の一声で一蹴されたわけだ。
その後も九条関白の奔走した結果、天皇の反対がありながらも勅許とは明示していないが外交措置は幕府に委任するという趣旨にいったん落ち着いたらしい。
しかし天皇がまったく納得していなかったらしく、3月11日には富小路敬直をひそかに呼び出して関白の勅許案に裁可を下したが反対していた旨を伝えて何とかこの案を書き改めなければいけないとの勅書を渡し久我建通の下に持っていかせたらしい。議奏という会議で決定した内容を天皇に報告する役職についている久我は病気で引きこもっていたが書状を受け取ってからすぐに中山忠能、正親町三条実愛・岩倉具視などを招集して話し合い、翌12日の正午頃から延臣(ていしん:朝廷に仕える臣下)が続々と集まり改さんを請う願書に署名をした者が88人に及んだ。この日九条関白は病気を理由に参内しなかったため人を送って書状を渡させたところ、申し入れのところは委細承知の返答をしたらしい。13日には有栖川宮熾仁親王が外交拒絶の意見を孝明天皇に上奏し、17日には150人以上の条約反対の署名が集まった。こうして条約に対する勅許を出さない事が決定してしまった。二十日に参内した時には近衛左大臣から鎖国制度の変革を批議され否定された。
ここまで考えると京都に来てからの努力がすべて報われなかった事を痛感した。さらに朝廷側は将軍継嗣問題において年長の慶喜を推す意向である事もわかった。
そして京都でできる事がないと思ったため4月5日に京都を出て江戸に向かった。