第百五十一幕
関白の九条殿との面会後、主膳は慌てて二条家に戻った。
水戸の斉昭殿が条約について公家に働きかけているだろう事はわかっていたが、将軍に一橋をおす動きまでは予想していなかった。門徒を呼んで色々と調べさせる必要があったために二条家で待機していた門徒の元に急いだわけだ。
門徒に指示を出して数刻もしないうちに京都内で一橋派が動いている事がわかった。直弼様は南紀派なので紀州の慶福様を将軍にした方が良いのは明らかだ。将軍継嗣問題は正直にいうと朝廷はあまり関与がないがやはり良好な関係を築く事は避けられないので早急に手を打たねばならなかった。
幸いな事に京都は彦根藩からも近く歴代の藩主は京都守護職も行ってきているので、朝廷側としても井伊家に対する信頼は厚く、京都から近い紀州の出身者が将軍になるのも朝廷側からすれば良いことだろう。
なにより、伝統を重んじる朝廷は江戸幕府創設時からある御三家の紀州徳川家の方を重んじる可能性が高い。その辺も含めて話せば出遅れたとはいえまだ挽回できる可能性は残っている。
急ぎ、準備を済ませて色々な公家にあいさつ回りを行う事にした。九条殿も申されていたように朝廷側の公家に条約調印に関する説明をしつつ、将軍継嗣についてのお願いもして回った。
1月の終わりになる頃には重要な役職に就く公家連中への説明を終えた。説明を聞くまでは反対していた者も説明を聞くなかで外国の脅威を感じたのか態度が改まっていくのを感じた。
2月に入ると堀田正睦老中首座が本能寺に入ったとの知らせがきた。自分がお膳立てした朝廷への根回しがようやく実を結ぶと期待に胸を膨らませていたが届いたのは悪い知らせだった。
関白の九条殿も太閤の鷹司殿も条約調印は仕方ない物と天皇に奏上してくれていたが、天皇は堀田正睦との面会中にこの意見を聞かず勅許を与えないと言いきったらしい。
さすがに天皇に直接会い説得する事はできなかったが、関白と太閤の意見を聞かないとは思ってもいなかった。
京都で自分が収めるはずの成功がまさか天皇一人の意見で失敗に陥るとは思ってもみなかったがために長野は落ちた肩をなかなかあげられずにその場に立ち尽くす事しかそのときはできなかった。