第十五幕
西郷殿に続き、直亮様の部屋に入ると先ほどの冷たい感じはどこにもなく、気さくな雰囲気で直亮様が座っていた。
僕と直弼様が座ると直亮様は二冊の本を直弼様の前に放り出した。
直亮様は笑顔で
「直弼、その二冊の本の違いがわかるか?」
直弼様は二冊の本を手にして見比べ、
「どちらの本も洋書ではありますが、こちらの本は貞治から教わっている英語で書かれていますが、こちらは似ていますが違う文字のように思います。」
「ふむ、良かろう。
貞治、お主も見てみよ。」
僕は直弼様から本を貰い見てみた。僕の疑問は確信に変わった。
「お聞きしてもいいでしょうか?」
僕が聞くと直亮は嬉しそうに「許そう。」と短く答えた。
「こちらの英語の本は、直亮様からご依頼いただき翻訳していた本と同種の物です。
ですが、もう一方の本はオランダ語で書かれた本です。
これはどういう意味でしょうか?」
「貞治、お主はわかっているのだろう?
ならば、思っている通りに話してもかまわないぞ。
ふむ・・・・、ではもう一つだけヒントだ。
私は貞治が言うオランダ語とやらと英語とやらの見分けができるわけではない。
しかし、売り手からどこの国の本かを聞くことはできる。」
そこに直弼様が割って入り、
「つまり、直亮様はイギリスの本を選んで購入し、貞治に翻訳をご依頼されていたという事ですね?」
「買う相手を選ぶ事もできたと付け加えておこうかな。」
直亮様は楽しそうに言われた。僕が
「つまり、私が英語しか読めない事をご存じでそのように取り計らっていただけたという事ですか。」
「直弼の聞きたい事は少し違うだろうが、そこは後回しにして貞治の質問に答えるとしよう。
我々からすれば、英語とやらもオランダ語とやらも違いがわかるものではない。
たまたま、私が読みたいと思った本がイギリスの英語の本だったとは思わぬか?」
「鎖国体制下の日本では西洋の書物はオランダからの輸入品だと考えていました。
オランダがよその国の本を持ち込むこともあるかと考えていましたが、私のもとに来た本はすべて英語でした。オランダからの輸入品ならオランダの本の割合が多くて当然。
他の国の本も紛れていてもおかしくはないのに英語の本ばかりとはおかしいと昨年から思っていました。」
「ふむふむ、その通りだ。
良いぞ、貞治。そこまで気付いているとは見事だ。
私はイギリスの本を買い、そなたに翻訳を依頼している。」
「直亮様、それはつまりイギリスとの密貿易をお認めになられるという事ですか?」
直弼様が聞いた。オランダの商人も都合よくイギリスの本を持って来るような事はありえない。つまり、イギリスから直接買っていると直弼様は考えられているようだ。直亮様は満足げな表情で
「聡明すぎるとは恐ろしいな直弼。」
「藩の財政は大飢饉の影響もあり逼迫しています。
直亮様の洋書の購入費に多くの財政支出が見られる事から、不思議に思っておりました。
洋書とは、そこまで高価な物なのか・頻繁に手に入る物なのかと考えておりました。
ですが、密貿易なら約定次第では頻繁に手に入るし、足元を見られて高額で売り付けられる事もあり得ると考えました。」
「見事だ直弼。
それで、どうする?兄を幕敵として将軍に処罰を望むか?」
「直亮様!」
西郷殿が制止の声をかけた。直亮は楽しそうに
「良いではないか。
ここには我らしかいないのだ。直弼がどうするべきと考えるか聞いてみたい。」
直弼様は僕が口走ってしまったあの言葉を覚えているだろう。
『薩長が幕府を倒す』という言葉を。
そして異国船打払令を基に薩長がイギリスとの密貿易をしていた事も。
そう考えるなら、対抗手段としてイギリスを知るために取引している人がいても文句は言えないだろう。直弼はまっすぐに直亮様を見て、
「知識は武器です。
知らぬより知っていた方がいいと考えます。
直亮様を幕府に突き出したところで幕府の重臣として仕える直亮様の信頼と庶子に過ぎない私の言では直亮様の信頼が勝りましょう。
私には幕府を信用させるほどの名も実績もありません。
よって、私には何もできないと考えています。
できる事なら支出を減らし、財政再建策を考案・実行して頂ける事を望むばかりです。」
「なるほど、本の購入費を抑えるよう努力しよう。
貞治、おぬしの疑問は解消できたか?」
直亮様がイギリスと貿易をされているという事実には驚いた。しかし、これで僕のもとに英語の本ばかりが届いていた謎が解けた。だが、もう一つの疑問が残っている。
「私は蘭学者として直弼様にお取立て頂きました。
なのに、オランダ語が読めない事をなぜご存じだったのですか?」
「なんだ、まるっきり読めなかったのか?
それは予想外だ。少しくらい読めるものかと思っておったがそう簡単でもないのだな。
最初に会った時に英語の本を見せたら、すぐに忠告してきたのでな。
英語の読める男を見つけたくらいに思っておった。それだけだ。」
直亮様がそういうと西郷殿が
「直亮様、そろそろ次の御用時の支度を・・・」
「うむ、わかった。
悪いな、直弼・貞治。
次の用事があるようでな、まあ近いうちにまたゆっくりと話をするとしよう」
直亮様が言うと西郷殿が僕達に帰るように促した。そのまま挨拶をして僕と直弼様は部屋を後にした。
「直亮様、ご忠告いたします。
直弼様は危のうございます。速やかに何らかの対処をされなければ、直亮様の立場を危うくすること間違いありません。」
直弼たちが去った後、新年の挨拶の時もいた老人・木俣殿だ。
西郷はこの老人が彦根藩の当初から筆頭家老として彦根藩を支えてきた家柄の人だと知っているが、藩主の弟を処分するように進言するとは思っていなかった。
危機感を表している木俣殿に反して直亮様は満足げに
「何を言うか。
あれほど聡明なものは使い道が多くある。どうするかのビジョンもあるし、あのものを失う事こそが日本の損失だ。まあ、見ておれ。」
直亮様が言った『ビジョン』とは意味がわからなかったが、直亮様は直弼様が偉大な人物になると確信しているように見えた。そして、
「西郷、直弼・直恭共に江戸へ連れていく。
その旨、両名に伝えよ。
ああ、ついでに貞治も同行させよ。近くにいた方が翻訳が早く手に入るからな。」
「あ、え~と大久保殿はいかがしましょうか?」
「どちらでもよい。」
「承知いたしました。」
西郷はそう答えると、その場を後にした。