第十四幕
時は天保5年、直弼が元服して2年の月日が経っていた。
正月が過ぎた頃に直亮様が彦根に帰藩した。直亮様に近い兄弟から順番に新年の挨拶をする事になり、直弼様・直恭様は最後となっていた。
西郷殿の話では直亮様は幕府の中でも偉い役職についておられ、彦根に帰ってくる事が珍しくなっているにもかかわらず今回は日程をわざわざ調整して帰藩されたらしい。
なぜかわからないが、直弼様達の挨拶には僕も呼ばれていた。
正確に言うと直弼様と直恭様は従者を連れてこいとの事だったので僕が個人的に呼ばれたわけではない。
いざ、挨拶の場に着くとなかなか珍しい光景が広がっていた。
広い部屋にもかかわらず直亮様の近くに西郷殿を含めた若者二人と僕が見た事のない老人が一人控えているだけで、あとは直弼様・直恭様そして僕と直恭様の従者である大久保殿の7人しかいない。
もっと他の家老や警備の人達がいてもいいのではないかと思ったが、直弼様・直恭様が新年の挨拶をされたのでそちらに気を向ける事にした。
直弼様に関しては勉学を常日頃からされているため新年の挨拶も心配はしていなかったが、直恭様はどうやら何度も練習されていたようだ。
直恭様も直弼様に比べてしまうと勉強量は劣るがまじめに勉強されている。
一通りの挨拶が終わると、直亮様が
「貞治、お主の翻訳いつも楽しく読ませてもらっている。」
直弼様達と話すのかと思っていたら急に僕に来たので
「ありがたき幸せでございます。」と答えた。直亮は笑顔で
「蘭学書の翻訳をあれほど読みやすくできる者は江戸にもおらんだろうな。」
「ありがとうございます。」
僕にはこの人の真意を読み取るほどの技量がない。だから用心深く返事していたが、それもお見通しだったようで
「そう固くなるな。
別に何も企んでなどおらん。」
「いえ、そのようには思っておりません・・・」
「まぁ、良い。
今日、従者である貞治と大久保を呼んだのは他でもない。
末弟2人の生活ぶりについて聞いてみたかったのだ。
上の兄共は自分をよく見せようと聞いてもおらんのにペラペラとうるさい奴もおったのでな。そばにいて常に見ているおぬしらから見たそれぞれの主人を話せ。
誰に気を使うべきかは聡明なおぬしらならわかるであろう。
では、貞治から見た直弼はいかがだ?」
直弼様達の兄の多くは大名の養子に出されているがまだ何人かは彦根に残っている。おそらく、養子に出されるようにアピール合戦があったのだろう。
「直弼様は、弘道館に毎日通われ勉学・武芸に励まれておられます。
友人は数人ではありますが心許せる者達と和歌や茶道などの交流をされています。」
「・・・・・・うん?それだけか?」
直亮は拍子抜けしたように聞いた。
「はい、直弼様の日々の努力を延々と語るのを聞いて頂くほど直亮様はお暇ではないと心得ておりますので、簡潔に要点のみをお話ししました。」
「なるほど、まあ良い。
では、大久保から見た直恭はいかがだ?」
「はい、直恭様は武芸に関してはさらなる努力をして頂く必要がございますが、勉学に関しては弘道館内でも秀才だといわれ、直恭様に教えを願う者達でいつも周りを囲まれるような状態となっております。
人柄も良く、従者である私の指導にもしっかりと付いてきてくださり、優秀である事は言うまでもない事でしょう。
弘道館の先生方からの評判も良く人望が高いです。何より人を導く才能をお持ちでいらっしゃると私は考えており・・・・」
まだまだ続きそうだと思ったのか直亮が
「もう良い。
二人とも勉学に励み、藩を支えられるような立派な武士となれ。」
「はっ!」と二人が返事をする。
大久保殿はどうやら直恭様を養子に出し、それに付き従う事で自らも出世しようと考えているのだろう。あえて人望が高いだの人を導く才能だの言っていたのはそういう事だと僕は思っている。そんな大久保殿の事も直亮様は見抜かれているように感じた。
そんな事を思っていると、直亮様が
「貞治、追加で翻訳の本を西郷に渡しておいた。
急ぎではないが、できるだけ早くほしいと思っている。
急かせて悪いと思っているのでな、お詫びにお主も欲しい本があれば西郷に伝えよ。」
「ありがとうございます。」
仕事が増えるのはと思ったが僕にはそれ以上に疑問に思っている事があった。そう思ったのも見通されたようで、
「どうした貞治?聞きたい事があれば遠慮せずに聞いてよいぞ?」
何かを楽しんでいるように見えた。僕は賭けに出るつもりで
「では、蘭学書をどちらで購入されているのかを教えて頂けますか?
自分で本を選ぶというのも本を読む醍醐味だと思っておりますので。」
直亮は一瞬不敵な笑みを浮かべてすぐににこやかな笑顔になった。
この話についていけない直恭様と大久保殿は僕の顔と直亮様の顔を順番に見ている事しかできなかった。直亮は声を出して笑い、
「良いだろう。しかし、このような場所でする話でもないのでな。
この後、直弼と共にわが部屋へ来い。そこで話そう。」
ここにきて疎外感が危機感に変わった大久保が
「それでしたら、私と直恭様も・・・・」
言いかけたところで直亮が冷たくにらみ、
「おぬしらに話す事はない。帰って木刀で素振りでもしておれ。」
そう言って立ち上がると広間から出ていこうとした。そこに直弼様が
「それでは私も帰って素振りをしたいのですが。」
直亮は直弼を睨むようにして見たが、直弼様は真剣な顔で直亮様を見返していたので、直亮様が折れて、
「直弼、お主も知りたいであろう?
それに従者を置いていくなど主君として恥ずかしい事だとわきまえよ。」
そういうと本当に広間から出て行った。
西郷殿が
「直恭様、大久保殿はお帰り下さい。
直弼様と貞治殿は私に付いて来て下さい。」
そう言って、僕と直弼様を促した。直弼様が兄である以上、直恭様は直弼様が退室されるまで頭を下げておられたが、大久保殿は悔しそうに僕を睨んでいた。