第百三十九幕
「奉行所からの報告でございます。
彦根藩藩主側近の脇貞治が現れ、吉田松陰を『似た男』と言ったため捕縛しなかったとの事です。」
水戸藩屋敷で家臣からの報告を聞いたところで怒りが湧くという事はない。建前上は危険人物として追わせているが個人的にはそこまで重要視していない。斉昭はどちらかというと脇貞治の方が気になっていた。転移者や転生者くらいに知識があるが、歴史を変えようとしたり、立身出世を目指しているわけでもない男。
常に井伊直弼をたてて自分は一歩引いて歩き重要な場面では即座に直弼の盾になる男だ。いくら歴史学者でも家臣の一人一人の名前まで知っているわけではないから歴史に登場しない優れた裏方だったのかもしれない。
問題は彦根藩前藩主の直亮が転移者だった事だ。
例えば地頭の良い子供に直亮が未来の知識も踏まえて教育を行い、直弼をサポートする人材として育て上げた人物という可能性は否定できない。
長野主膳の話では脇貞治も十八までの記録がなく、当時の脇家当主がどこからかつれてきた子を養子にして直弼の側付きにしたと聞いた。まぁ、よくある話ではあるし疑うほどの問題でもない。
だが、直亮の教育の過程次第では安政の大獄や桜田門外の変の話まで教えているかもしれない。
もしも仮定通りなら直亮が望んでいた井伊直弼を完璧な偉人にするという話に則って安政の大獄や桜田門での出来事を阻止しようとしてくる可能性がある。
そんな事をされると歴史が変わってしまう、それだけは避けなければいけないし対策が必要になる。
実際に会って見定めたいと思ったが時期が悪い。将軍継嗣で直弼と敵対関係にある中気軽に家臣に会いに行ったという事にはならないだろうし、さっきの一件にしても水戸藩からの情報で動いた奉行所の動きを独断で制したとなれば我々が怒っていると相手に思わせてしまうだろう。直弼が脇貞治を江戸城内まで連れてきているという事がないため江戸城で偶然を装う事も難しい。側近でありながら藩屋敷内での仕事のみを行っているという事は人前に出るのが苦手なタイプなのだろうか?ここまで考えてふっと思い出した。報告に来た家臣に何も言っていない。家臣は私が考え込んでいるのを見てかなり怒っていると思ったのか私が話すまで黙ってその場にいた。
「ああ、悪い。少し考えごとに夢中になってしまった。松陰についてこちらが誤報だった可能性もある。
危険思想を持っていたからと言ってすぐに捕まえようとしたのも早計かもしれないしな。
何よりあの辺では水戸藩より彦根藩の方が評判がいいだろうから無理を言いすぎてもいけないしな。」
「大地震の際にかなり人命救助や建物の復興に尽力したと聞きました。その意味でいうと我々よりも向こうが信頼度が高いとなっても致し方ないかと思います。」
「そうだな。もし万が一捕まえようとしたのが松陰であったとしても我々はまだお前を追っているぞと警告になった事だろう。意味はあったと思い今回は何もなかったことにしよう。それで良いか?」
「殿がそれでよろしければ。」
「ではそのようにしよう。後の処理は任せた。」
家臣が下がったのを確認してから、
「さて、どうやったら脇貞治に会えるだろうか?」
久しぶりに本気で悩まされる問題にであった事に嬉しさすら感じた。