第百三十七幕
安政四年六月十八日、彦根藩屋敷に衝撃の知らせが届いた。
前老中首座の阿部正弘が亡くなったという。三十九歳という若さだった。名宰相と言われた男はきっと心労も多く見た目も老けて見えていた。老中首座を退いて二年が経ったが幕政への影響力を発揮し続けていた。
その中での急な知らせだった。
溜間詰のほとんどが反斉昭派で固まっている中で斉昭に近い幕府の中心人物が一人いなくなった事には斉昭の立場が危うくなっている。水戸藩が追い込まれる状況は安政の大獄へと続いてしまう可能性があるのでなるべくどうにかしておきたい。
直弼様に対する反感を減らせばそれだけ取り締まる人が人が減る事になるので、安政の大獄を軽減できるのではと思ったりもする。僕は散歩をする事にして屋敷を出た。特に行く場所があるわけでもなく歩いていると彦根藩屋敷から少しはなれた場所にある長屋に人だかりができていた。誰かが話しているのを若者が聞いているようだ。興味が湧いたので僕も近寄ると僕が近づいたのを見た若者がヤバイ所を見つかったという顔をして走り出した。
僕も40を超えているからそういう大人に見つかったらヤバイ事をしていたのだろう。離れていった若者に対して人だかりの中心にいた人物はそこにいたままだった。僕はその者に見覚えがあった。日米和親条約締結の際に警備に潜り込んだ時にペリーに会わせろと現れた男・吉田松陰だ。
松陰は僕を見ると笑顔で
「何かの取り締まりですか?」
「いや、散歩をしていたら人だかりがあったから何をしてるのかなとのぞいたら何やら勘違いされたようです。」
「まぁ、私の教えは大人に聞かれるとヤバイですからね。
おや?あなたは以前どこかでお会いしましたか?」
「さあ、牢屋の番だったかもしれないし怪しい人間を取り締まる岡っ引きかもしれませんよ?」
「いやー牢番ではないな。岡っ引きに追いかけられたりも最近はないな。う~ん、あっ!そうだ、ペリーに会わせろと行った時に警備をされていた方ですよね?」
「思い出して貰わなければそれで良いかと思ってましたが。
こちらで何を?」
「若者にこの世界の真実を伝えていただけですよ。」
「それはすごい。私には他の人よりたくさん知識があるが未だに真実が何かわかりませんからね。」
「真実とは歴史ですよ。この国の進む未来、そして変えるべき未来がある。ただ水戸斉昭は私には何もできないといわれてしまいましたけどね。」
「あの方も不思議な人ですがあなたも変わった人ですね。」
「アハハ、そういうあなたも変わった人ですよ。
そう言えばお名前をお聞きしてませんでしたね。良ければ教えて頂けますか?」
「ああ、申し遅れました………」
僕が名乗ろうとしたところに男が二人現れた。服装的に岡っ引きぽい。それに顔見知りの男が一人いる。
「おや、こんにちはどうかされましたか?」
僕が聞くと知り合いの男がかしこまって
「失礼したしました。実は吉田松陰らしき男がいるとの通報を受けまして。こちらの男はお知り合いですか?」
僕は松陰を一瞥して
「私も吉田松陰らしき男がいると聞いてきてみたんですが、いたのはこの人でした。伝聞で聞いていた若者たちが特徴が似ていたこの人と間違えたのでしょう。まあ本人も面白がって適当に話されていたようですけどね。」
「いや、聞いた事もない人と間違えられたので楽しんでしまいました。」
「そうでしたか。若者をおちょくるのもほどほどにしてくださいね。それでは誤解だったという事で処理しておきます。念のため一緒に来てもらえますか?我々の話だけだと上が納得しないかもしれませんから。」
僕が同行すれば丸く収まると思ったので同意して松陰に向かって
「なかなか楽しいお話でしたよ。まあほどほどにしといてくださいね。また何かご縁がありましたらお話ししましょう。」
僕は岡っ引きの二人とその場を離れた。向こうは僕が吉田松陰だと気づいているとは思っていないだろうが結果だけ見たら助けたように見えたのだろうか?まあどちらでもいいなと思った。