第百三十六幕
安政三年(1856年)十月二十一日に江戸城の将軍家定のもとにアメリカ駐在大使ハリスが訪れた。
謁見の際に将軍の家定の対応があまりにも拙かったとの話を聞いた。1853年に30歳の時に将軍になった家定は未だに子女もいなかったために将軍継嗣問題がささやかれるようになっていた。
前将軍の家慶には20人ほど子供がいたらしいがそのほとんどが10代で亡くなってしまったらしい。この時代の女性は化粧が厚く、その化粧に使われているおしろいには鉛が含まれた物が使われていたため母親や乳母からの化粧による影響を受けて鉛中毒が原因ではないかと僕は思っている。実際にどうかは僕には判断できないため身近な女性には注意を促しているがどこまで聞き入れられているかは不明だ。
家定に関しても病弱でかなり状態が不安定で初めて会ったハリスからすればかなり異常に見えただろう。
子女がいないだけでなく将軍本人の体調面でも不安定となれば将軍継嗣問題が起きてもおかしくはない。
将軍継嗣は徳川三家・三卿の中から選ばれるが、現在の最有力の候補が紀伊家の慶福と一橋家の慶喜である。
一橋慶喜は江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜だ。将軍就任はもう少し後だったような気がするから今回は選ばれなかったのだろう。
そもそもこの二人が選ばれているのは慶福が家定の従兄弟にあたる事で血統的な意味合いが強い。
慶福の父の慶順は前将軍家慶の弟であるため血筋的には一番将軍に近いとされているが問題は年齢で紀州家を継いだのが四歳の時で現在も八歳から九歳くらいだといわれている。年齢的に幼すぎる事が決め切れていない要因だろう。
次に一橋慶喜は水戸斉昭の七男で慶福よりも九歳くらい年上で十一歳の時に一橋家を継ぎ現在も二十歳を超えている。体調不安を抱える家定を補佐し継嗣となるには十分な年齢の上に父親同様にとても優秀だと言われている。現在でもこの二人のどっちを将軍にするかで大名達も派閥に分かれ始めている。
慶福を押す南紀派と慶喜を押す一橋派である。直弼様は南紀派の思想を持っている。直弼様に関しては将軍の継嗣が不在の状況をかなり前から不安に思い色々と動かれていた。
そもそもの話がペリー来航時に外交上の問題で斉昭殿と対立しているために斉昭殿の息子の慶喜を将軍に押すわけがない。さらに言うなら直弼様が信頼を置いている長野主膳が紀伊藩と関わりが深い事も影響しているだろう。長野の半生も謎に包まれているが僕と同じように未来から来たのではないかと疑った事もあったが今となっては杞憂に過ぎなかった。時に歴史を知っているのではないかと思う瞬間もあったが、それにしては納得できない行動が多かったために外部から入れ知恵をしている人間がいると考える方が納得できたからだ。その入れ知恵をしている人物には辿り着けてすらいないが注意はしている。
対立する斉昭殿や信頼する長野主膳の存在から直弼様は慶福を将軍にするために今後も動いていくのだろう。この問題に関して僕が動く事はないが直弼様が不利な立場にならないようにだけ気を付けておこうと思った。