第十三幕
「・・・る、・・・・はる、おい、貞治!」
僕は大きな声で名前を呼ばれたので顔を上げると、鉄三郎様・・いや今は直弼様が心配そうな顔で僕の顔を見ていた。
「すみません、何か御用でしたか?」
「いや、英語の質問をしようと思って声をかけたが反応がなかったのでな。
なにか悩み事でもあるのか?」
「そうでしたか、すみません。
今、翻訳をしている本が面白くて翻訳していたら、徹夜してしまいました。
すみません、少しウトウトしていたんだと思います。
それでご質問とはどのような所ですか?」
直弼様である事を悩んでいるとは言えないので、質問の話に戻してみたが直弼様は全然納得されていないように思えた。
「脇殿!」
「ああ鉄三郎様。いや、失礼しました直弼様。
何か御用ですか?」
元服の日からまだ数日しか経っておらず、『鉄三郎』と呼ばれた時期が比較的長かったため呼ぶ側にも呼ばれる側にも『直弼』が浸透するまでは時間が必要そうだった。
「実は貞治の事なのだが、ここ数日なにか悩んでいるようなのだが、本人に聞いても翻訳で疲れているだけだと言って教えてくれぬのだ。
あれは間違いなく、なにか悩んでいるようなのだが脇殿は何か聞いておられませんか?」
「確かに最近は、考え事をしているように見える時が多いです。
しかし、直弼様が元服され色々と環境が変化しているのを貞治は感じているのかもしれません。特に貞治の場合は、未来から来たとするならこちらの時代の色んな事を知らない状況なわけですから戸惑う事も考える事もあるのでしょう。
私からも色々と教えておきますし、話も聞いておきましょう。」
「そ、そうか。
そうだな、何に悩んでいるのかわかって、話しても良いような事なら私にも教えてくれ。」
「承知いたしました。」
直弼が去っていく後姿を見送りながら、脇は直弼様が従者を気遣われるなんと優しい方だろうと思うのと同時に主君に心配をかけるほどの貞治の悩みについて気になり、夜にでも話す事にした。
「失礼いたします、お呼びでしょうか、義父上。」
「そこに座れ。」
電気のない時代、ろうそくに照らされた義父上は少し怒っているように見えた。
何かやらかしたかと考えていると義父上が、
「貞治、お主は最近・・・直弼様の元服の日からなにか悩んでいる事があるように見える。
それが直弼様にも伝わり、たいそうご心配下さっている。
直弼様に伝えられない事だとして、私にも言えない事なのか?」
何もかもお見通しだったようだが、僕の悩みをこの時代の人に話していいのかとわからなかった。そこで
「義父上は、僕と初めて会われた日の事を覚えておられますか?」
「あれほど印象的な日もなかったからな、会話の内容まで覚えていると思うぞ。」
「そうですか、それでは僕が未来から来たと鉄三郎様が信じて下さり僕に言われた言葉を覚えておられますか?」
「うむ・・・薩長の裏切りの話の後の言葉だな?」
「そうです。」
「確か、何か知っている事があっても我々には話すなという言葉だったな・・・」
そこで義父上は何かに気づいたようで、
「つまりは、我々についての何かを知っていた。
そしてそれが伝えるべきだが、あの時のお言葉どおりなら話す事ができないとそういう事か?」
「はい。」
僕が短く答えると義父上は頭を少し抱えて考えてから、
「直弼様の元服の日からという事は、直弼様について何かを知っているという事だな?」
「はい。」
そしてまた義父上は考えだしてから、
「貞治、お主が知っている事はお主の心の中にしまっておけ。
何なら、お主が知っている事は完全に忘れてもかまわない。
この時代の未来を切り開くのは我らのようなこの時代に生きる者だ。
そして我々が自らの力で切り開いた未来にお主の本当の時代があるなら、お主がこの時代の未来を切り開く助けをしてはいけないと私も思う。
直弼様に今後どんな未来が待っていようと、それは直弼様が切り開くべき未来なのだ。
だから、お主は何も気にせずとも良い。わかったな?」
「わかりました。」
僕は父上からの言葉で目が覚めたように感じた。確かに本当の事を伝えて何かを変えれば桜田門外の変は起きなくなるのかもしれない。でも、それは本来の井伊直弼の功績もすべて失わせるかもしれないとんでもない事なのだと気づかされたような気がする。
そんなことを考えていると義父上は小さな声で
「それで直弼様はどんな方になられるのだ?
偉大な人物か?それとも日本を指揮するような人物か?」
どちらも間違ってはいないでも、それは聞かないという流れではなかったのかと思い、
「義父上、それは聞かないのではなかったのですか?」
「お主が悩んでいるのはあまり良くない出来事を教えるかどうかであろう?
直弼様は良い事も悪い事も聞かれはしないだろうが、親代わりの私としては貞治の未来も直弼様の未来も聞いておきたいではないか。
それとも話せぬほどの大罪人になられたのか?
名君と暴君は紙一重というしな・・・・・」
義父上の不安そうな顔を見ていると笑えてきて、少しだけ教える事にした。
「直弼様は江戸幕府の誰にもできなかったことを成し遂げた人物ですよ。」
義父上は目を丸くしたが、それ以上は聞かずに
「そうか、それなら鉄三郎様らしくて納得できる答えだな。
鉄三郎様にはお主は最近腹の調子が良くなくて悩んでいたと伝えておく。」
「もっとましな理由はないのですか?」
「お主の時代ではどうか知らんが、この時代では腹が痛いと思っておったら重大な病気で命を落とす者もいる、比較的重要な悩みだぞ?」
「それは失礼しました。」
後日、知る事になったが腹痛の悩みは義父上が言うほど重要な悩みではなかった。
たぶん現代でいうところのブラックジョークだったのだろう。
それから一か月ほどは直弼様にお腹に良い薬や食べ物を頂くことが増えたが、それほど心配させていたのだと後悔もした。
そして僕は、隠し持っていた歴史の教科書を落ち葉とともに燃やしたのであった。