第十二幕
「おはようございます、鉄三郎様。
ご気分はいかがですか?」
僕が聞くと笑顔で
「鉄三郎と呼ばれるのも今日までかと思うと寂しいな。」
僕も数日前に感じた寂しさではあったが、
「おめでたい事ですし、何より名乗る名前が変わってもその人が変わるわけではありません。鉄三郎様は鉄三郎様ですよ。」
「なるほどな、元服名を名乗るのだからしっかりせねばと思っておったが、そうでもないのか。」
「鉄三郎様は初めてお会いした日からしっかりとされてましたよ。」
「そうか、貞治に言われると嬉しいな。
よし、では気合いを入れて日々精進していくためにも元服名を貰いに行くとするか。」
鉄三郎様は正装を着て儀式の行われる屋敷の広い場所に移動した。
広い場所に着くと既に準備は完了していて、義父上の脇が剃刀を持ち立っていた。
「鉄三郎様、こちらへ。」
促されるまま鉄三郎は椅子に座る。隣では弟君も座っていた。
義父上の脇は改めて
「それでは、これより月代を入れさせて頂きます。
本日は藩主直亮様が江戸におられるので後見人である私が代わりに行わせて頂きます。
なお、ご両人への月代を入れるのが終了次第、元服名を発表させていただきます。」
鉄三郎は目を閉じた。義父上がゆっくりと鉄三郎様のおでこに剃刀をあて、月代を入れるために前髪から頭頂部に向けて剃刀を入れていく。10分程だろうか、それくらいで見事に月代が入れられた。鉄三郎様へ月代が入れられる様子を弟君は心配そうに見ていた。次は自分である事からどんな感じか不安だったのだろう。
逆に鉄三郎様は弟君が月代を入れられている様子を誇らしげに見ておられた。母は違えど、父の直中様が亡くなられてからは共に生活されていた事もあり、兄弟としての思いも強かったのだろう。そして、月代を入れる儀式が終了すると義父上が
「それでは、鉄三郎様からです。
彦根藩井伊家の初代直政様から受け継がれる『直』の文字と『たすける・ただす』の意味を持つ『弼』の文字を合わせて、直弼(なおすけ』とする。」
僕はこの瞬間とても驚いた。知らなかった、当たり前の事だが鉄三郎様はきっと歴史にも登場しないような人物だろうと思っていた。そうでなければ僕の拙い歴史の知識ではどうなったかもわからない人になるだろうとどこかで考えていた、そうであってほしいと言う願望もあった。
だが、その願望は見事に打ち砕かれた形になった。義父上が大きな文字で鉄三郎様に元服名を見せている。
それはまさに自分がこの時代に来る前に受けていた授業で習った人物のその名前だった。義父上が続けて弟君の元服名を発表しているが『直恭』といっている事しか頭に入ってこなかった。それどころではなかったからだ。
鉄三郎様は暗殺される。その事を考えると教えなければいけないと思う心と鉄三郎様が初めてあった日に言った『今後、もし何か知っている事があったとして教えないで欲しい。私達が死ぬことになっても運命だから。』と真剣な顔で言っておられた事を考えるなら教えないでいるべきだろう。
僕はこの日から答えのでない悩みを抱える事になった。
教えるべきか、教えないべきか。
どちらを選んでも僕には正解として受け入れられる事が無いようにしか感じなかった。
僕の悩みとは裏腹に笑顔で満足そうな鉄三郎様・・いや、直弼様を見ながら僕は密かに頭を抱えるしかできなかった。