第百十五幕
僕は身分などを隠しながら横浜に来ていた。あまり彦根藩の人間としているわけにはいかないと思ったので色々なとこに働きかけて潜入させてもらった。会談の警護の中に紛れ込んでいた。
二月の六日には水戸斉昭殿が交易を一切認めず、漂流民の保護や食料の提供などを認めてもいいとの方針を伝えて米使応接掛の大学頭の林韑、対馬守の井戸覚弘に譲歩案をいくつか渡してペリーとの交渉の場を設けた。その場に紛れ込んだわけだ。
二月十日には林・井戸に加えて浦賀奉行で美作守の井沢政義、民部少輔の鵜殿長鋭の四人で第一回の外交談判が行われた。平行線の話し合いの中で何回か談判は行われ二月三十日には両国協定の大綱がまとまり、ペリーから日米和親条約の草案が提出され審議が進められた。
三月三日には日米和親条約の十二ヵ条の日本語条約書と英文条約書に署名がされた。
下田・函館の開港、漂流民の保護、薪水・食料・石炭・欠乏品の供給、開港した港の外国人遊歩区域の設定、最恵国約款などがアメリカに向けて定められ、不開港の港への船の禁止、領事駐箚などから成っている。駐箚とは外交官が必要に応じて日本に滞在する事である。
ペリーからの強い主張があり必需品の購入まで許したが、それも地元の役人を介した取引になり、直接買い付けることは許さなかった。僕は発言できる立場としていなかったから口を出せなかったが、領事駐箚や最恵国約款に関しては日本側が圧倒的に不利になるものだった。この会合にいた事でこの国がいかに知識的に遅れているのかを痛感した。わからない中でこの程度におさめた四人の応接掛はすごい人だなと思った。
こうして日米和親条約は締結された。
下田や函館の遊歩区域設定は大きな問題を含んでいる気がするがそれは幕府の偉い人達が処理する話だ。
僕がそんな事を考えていると若い男がなにやら怪しい動きをしている。一応、警護をする人間として潜入していたので、
「そこの方!何をされておられるのですか?」
僕が声をかけると若い男は一度ヤバいという顔をしてから笑顔になり、
「いや、申し訳ありません。田舎から出てきたのでアメリカ人……できたらペリー殿を一目見たくなりまして。
無理そうですかね?」
「ペリー殿を見世物にできる人間はこの時代にはいないでしょうね。残念でしょうがお引き取りください。」
「この時代にはですか?おかしな言い方をされる方ですね。未来にならそういう人がいるような言い方だ。」
男に言われて僕もうっかりしたと思った。男は笑顔で
「この国を変えるためには知識や情報がいる。ペリー殿と懇意になりたいなと思ったのですが無理そうですね。」
「あなたはいったい………」
僕が聞こうとすると壮年の男性が走ってきて
「よ、吉田殿!この様なところに。
そちらの方、何か失礼がございませんでしたか?」
「ペリー殿に会いたいとは言われましたが失礼というほどではありませんね。」
「ああ、もう。行きますよ、吉田殿!」
壮年の男性は一度若い男の腕を引っ張ったがふっと立ち止まり僕の腕をつかみ何かの袋を渡してきた。そして小声で
「これでなかったことにお願いします。」
そういって有無を言わさず走り去っていった。
袋を見ると小判が数枚くらい入っていた。
吉田……よくある名前だと思う反面、何かが引っ掛かった。
何より未来人である僕を見抜いたような言い方がかなり気になった。