第百十三幕
安政元年(1854年)、近づくペリーの再来航に向けて幕府の中には斉昭の超強硬派に対して直弼も含まれる溜詰はオランダと同じような扱いで長崎での貿易を行うべきだという通商派で意見が割れていた。
7月からの約半年の間に彦根藩内では直弼様の大老就任を願う声が大きくなっていた。そもそもの発端はペリー来航時に一時江戸で噂になった所から藩主が大老になるかもしれないと期待を持った藩士達がいた事であった。その噂も直弼様自らが笑い話として否定したために落ち着いたが、次に噂になったのは徳川斉昭殿が将軍後見人になり、直弼様が大老になるというものだった。
ペリーの来航直後に将軍徳川家慶が急逝した事により将軍継嗣等もあって幕府中枢が慌ただしかったのと先の噂による影響があったのだろう。
直弼様も会議の場である溜詰の一同から大老就任を請われていたらしい。その結果として直弼様が大老を狙っている等という噂が現実味を持って広がり藩士達の熱量もあがったというわけだ。
ただ、当の直弼様が乗り気ではなかった事から井伊家の祖神に伺いをたてると称して文書を出した。
これにより、祖神から認められたとなれば喜んで大老就任しようと宣言した。その返事が来ない事にはどうしようもないと言って話をはぐらかす狙いで行っているのだから、なかなか返事が来ないのも自分がまだ未熟でその器ではないからだといって藩士達には一層の努力精進を誓って見せたりなんかもした。
それでも納得しかった藩士達もいたが苦渋の決断だった。
そんな事もあった半年が過ぎていつペリーが来航するかもわからない状況の中で二月を迎えた。この時代では二月はもう春の分類になっている。幕府内では徳川斉昭殿が対応を一任されているためどうなるのかと不安を感じる状態が続いていた。
そしてついに黒船来航の報が江戸へと響き渡ったのであった。