第百十一幕
阿部正弘が広く大名達に意見を聞き始めた頃に彦根藩では様々な意見が出されていた。
先に直弼個人として脇貞治、長野主膳、中川禄郎の三人の学者を集めて話を聞いた。藩主とごく一部の学者の家臣が集まって藩の方向性を決めた事はあったが、正式に方針を発表したわけではなかった。他の家臣たちからも様々な意見が出されていた。家老岡本半介は中川と二人で討論をする中で交易にも反対の立場をとっていた。しかし、中川との討論の末に少し交易にも理解を示すようにはなったらしい。この一員としてロシアのプチャーチンという将校が率いる艦隊の来航の報を聞いた事も影響していると思われた。世界が日本を開国させようとしていると思うのに十分な情報だと思われた。
直弼が徳川斉昭や阿部正弘と直接討論できる立場にいるという事も岡本を意見を変えたらしい要因になった。岡本なりに考えた上申書も添えられていたりと藩士からの意見も広く集められた。
彦根藩の返答は二度に分けて行われた。
一度目は8月10日の『初度存寄書』で前段と後段に分かれていた。
【天主の邪教(キリスト教)を防ぐために閉洋の御法をたてられた神謀遠慮は万世利潤のためにも変えるべきではない】と鎖国を守るべきだとして防備を整え士気を高揚させるべきだと述べた。
しかし後段では【皇国海中に独立し外国の勢いにのまれており籠城退縮の姿になっており憂うべき立場になっている事から海外に勇威を振るい攘夷危機の懼れを抱かせる措置をとるべき】だと論じている。
前段と後段で矛盾しているように感じるが中川禄郎が書いた上申書の籌辺惑問が後段と一致していた。また、皇国という言い方から長野主膳の国体意識が読み取れた。
二回目は8月29日に『別段存寄書』は【今時の危変に対して閉洋の御法のみ押し立てて、天下静謐・皇国安泰のご処置これあるべくとも存ぜず】として一度目の『初度存寄書』とは異なり、現状を見る限りでは鎖国の遵守を否定して非戦論を唱えた。そして石炭の提供は臨時急用の時は長崎で対応し、交易に関しては朱印船貿易のようにオランダの商館を挟む事を唱えた。これらに加えて航海術や海軍調練を行い富国強兵をし軍備の増強によって海外に勇威を見せる事を主張した内容となっており、『初度存寄書』の後段部分を具体的に述べたものとなっている。
そもそも二段構えにしたのも徳川斉昭が主戦派の意見を出してくる事を想定して配慮したためである。
外国勢力との戦いにも触れて主戦派の意見も肯定しながら、直弼様自身の率直な意見を出さない事で徳川斉昭に対しての配慮としながら後段部分に意見を出してきた形となっている。
初段存寄書は主に中川禄朗を中心に作成されたと考えられその中にも長野主膳も意見を取り込み鎖国体制を守るような言い回しも取り入れている。しかし、この二度の返答には現時点での交戦避ける狙いを含みつつ別段の方で海軍強化や防備増強を行い必要に応じて鎖国体制への回帰もあり得るという可能性を残す事にした。これらに対する反応が幕府内でどうなるかわからない所であるがしばらくは様子を見る事になるだろう。