第百八幕
「井伊殿に大老職を与えようとの話があるみたいだぞ?」
「まぁ、井伊家の方なら歴任されてるしない話でもない。」
「まだ若くないか?」
「阿部殿がまだ健在なのにこんな話がでるとお立場が悪くならないか?」
「ご本人は未熟者だから本当に話が来ても断ると笑っておられたらしいぞ。」
「でも、家柄も人柄も問題はないよな。」
江戸城内の廊下を歩いていると色んな部屋から、井伊直弼の大老就任打診の話が漏れ聞こえて来た。
大老に推薦されてもおかしくない人柄を彼が持っているからこそ誰も嘘だと疑う者がいない。もちろん、この噂の出元を辿れば最終的に行き着くのは阿部正弘殿なのだから疑う余地もないだろう。徳川斉昭は自身が提案した通りにしか動けない老閣を哀れに思った。水戸藩からすれば南紀派(紀州徳川家派閥)の井伊家の藩主を大老職に就ける事を勧めるはずがないとまったく考えていないのかと思うと阿部正弘の時代も終わりに近づいていると感じざるを得なかった。大老になれば将軍継嗣問題が起きた時に発言力を増す事は少し考えればわからないわけがない。
その未来が来る事がわかっている自分とわからない阿部正弘を比べるのもどうかとは思うが長らく幕府の政治を動かしてきた男としてはあり得ない判断だ。
もちろん、井伊直弼が断る事も前提にしていたがまさか噂の段階ですでに否定に回るほど謙虚だとは思っていなかった。
だが、事は上手く運んでいる。直弼の大老就任は成らなくても阿部正弘が周囲の反応を見て、大老井伊直弼はありだと思わせるのに十分な布石をは打つことができた。
将来的な就任に向けての道筋を建てる事もできたし何より私の人選が間違いでなかった事により私の評価も上がった事だろう。
このまま外事の奉行にでも就けてくれると遠回しにはなるが日本の開国をすることができる。
順番に事を進めてピタリとピースがはまるように歴史ができあがっていく様を見るのには快感すら感じる。
歴史にIFはないし分岐もない。オープンワールドを駆け回るよりもストーリーをなぞるように進めるゲームの方が私は好きだった。そうだ……私の役目は歴史というストーリーを正確につむぎだし、エンディングに向けて進めるプレーヤーだ。
変動する社会を正し調整するのが私だ。
どんなに偉い人間でも私の手のひらで動く駒に過ぎない。
私がこの世界の調整者なのだから。
斉昭は誰にも見えないようにほくそ笑んだ。