第百七幕
貞治は江戸を訪れていた。直弼から頼まれた仕事を一段落させると急ぎ江戸まで来て欲しいとの連絡を受けたからだ。
直弼様の待つ部屋に入ると儒学者の中川禄郎先生と長野主膳が下座に座り直弼様が上座の辺りでウロウロと歩き回っていた。
「遅くなり申し訳ありません。」
僕が言うと直弼様は笑顔で
「こちらこそいきなり呼んですまないな。
さて、みんな揃ったから聞いて欲しい事がある。
実は阿部正弘殿が私を大老職に推薦しようとされているという話を長野殿の門下生が聞いたそうだ。
もしもその要請が来たらどう対処するべきかの意見を貰いたい。気兼ねなく申してくれ。」
中川先生が
「それでは僭越ながら私から申し上げます。直弼様も参加されている溜詰での井伊家の発言力は強いですが幕閣の連中に対する影響力はまだ少ないです。なので大老職に就く事で影響力の拡大を狙う必要はあると思います。」
「なるほど……確かに常溜詰として意見を聞かれる事はあってもまだまだ新参者だからな。
長野殿はどう思われる?」
「時期尚早かと思います。阿部正弘殿は黒船来航時は開国に反対されておられましたが、最近はその姿勢も軟化し中立的な立場となられています。老中首座として皆の意見を公平に聞くためと言われればそうなのでしょうが、どちらに転んでも責任を追わないための布石なのではないかとも考えられます。
ここは様子を見るべきだと思います。」
「ふむ、なるほど。貞治はどうだ?」
「長野殿と一緒ですね。阿部正弘殿がどのようにお考えなのかは推察でしかありませんが、来春にぺリーが来航した時の対応を誰か他の人に丸投げしたいのではないかと思います。
宇津木殿の活躍もありましたし、彦根藩に任せようと考えた可能性は否定できません。直弼様なら開国をされるだろうと見られているのであれば、開国せざるを得ない判断を開国すべきと主張する者に任せてしまえば上手く行かなくてもその者を責める立場に回れば良いですから。」
「なるほど……そう言う考えもありますね、さすがは貞治殿ですね。」
中川先生に褒められた。僕としては日米和親条約が来春に結ばれる事はわかっているし、日米修好通商条約を結ぶのが直弼様だとも知っているからこそ、今の時点での大老就任におかしいと思ったからこその発言だった。
「お三方の意見はどれも納得する利点がありました。ですが、長野殿と貞治の言うように時期尚早だと思います。もしも話が来ても未熟者だからと断る事にします。」
直弼様がそう言って会合は終わった。