第百六幕
江戸水戸藩屋敷の一室
およそ頭を下げて人を待つような服装でない男が畳に頭が付きそうなほど頭を下げている。
そこに男が入ってきた。寝巻のような服装の男は頭を下げている男を一瞥し上座に堂々と座った。
「阿部殿、頭を上げてください。家臣の者達に私が偉そうにしていると思われてしまうではありませんか。」
頭を下げて待っていたのは阿倍正弘で上座に座ったのは水戸斉昭である。一藩主と幕府の老中では明らかに幕府の老中の方が偉いはずなのにその立場を逆転させたような構図をとっている。
斉昭に対して良からぬ事を企んでいる人間や反抗的な人間からすれば良くない噂を流すのにちょうど良い話である。聞く人間によっては『お前は何様だ!』と怒ってくる奴だっているだろう。
「夜分遅くにお邪魔致しましたし徳川家であられるあなたに敬意を表す事の何が問題でしょうか?」
「その徳川家に不興を買って一度藩主から隠居させられた人間に頭を下げるべきではないという話をしています。まあ、この話はどうやら平行線のようですね。それで本日はどうされましたか?」
「斉昭殿は見事に黒船の来航を言い当てられました。そして数々の金言を頂いたおかげで私は長く幕府の中枢を担わせて頂くこともできております。これもひとえに斉昭殿の未来視あればこそでございます。」
「そのような大げさな物ではありません。ただただ勉学の果てに想像していた事が現実となっただけなのですから。」
「ご謙遜を。つきましてはまた私に未来を語って欲しいのです。来春にまたペリーなる者が現れ、この国はどうなるのでしょうか?」
「この国は開国をせざるを得ないしょう。軍事力の差がありすぎですから日本ではアメリカには勝てません。」
「では、私がその開国の決断をしなければいけないという事ですか?」
「なるほど阿部殿は上手くいくとも言えない開国の判断をした人間になりたくないという事ですね?」
「そのように言われるとお答えしずらいですが、その通りでもあります。」
「それは恥ずかしい事ではありません。誰しも歴史に汚名を残したいとは思いませんからね。
そうだ、今回の浦賀の来航時にアメリカとの諍いがあり、それをうまく仲裁した者がいたそうですね。
その者、あるいはその者の藩主を取り立ててこの件の対処を一任されてはいかがですか?」
「対応したのは彦根藩の宇津木という者です。確かに井伊家の藩主はさまざまな学問に精通した優秀な男と噂になっておりますし人格者として私も一目置いております。しかし、その宇津木という男はあまりに信用が置けない。前藩主の直亮はかなり頭の切れる心の奥が全く読めない男でした。その最側近だったのが宇津木です。あの男が利用されるだけなどあり得ません。」
「なるほど、では井伊直弼の方をすぐにとは言いませんが大老職につけるのはどうでしょうか?
井伊直弼なら開国は必ずしますし老中方や朝廷が反対しようと強硬で推し進めるでしょう。」
「そのような者を大老にしても大丈夫なのですか?」
「問題ありません。彼はおそらくこの国のためにも開国しなければいけない事を今の時点でわかっているでしょう。優れた蘭学者の側近もいるようですから役職につければ自ずと開国の決断を下すでしょう。」
「なるほど承知いたしました。」
「阿部殿はどちら付かずの開国中立派でいればいいですよ。そうすればどちらに転んでも阿部殿の立場を悪くする事はありませんからね。それに井伊家は代々大老職を何度も経験してきている一族ですから任命したとしても反論される事もないでしょう。」
「わかりました、では準備に取り掛かります。時間を頂きありがとうございました。」
阿部が退室していくのを見ながら斉昭は小さな声でつぶやいた。
「歴史にifはありません。決められた道を辿る事こそが歴史なのですから。」