第十幕
天保三年のとある日
「貞治殿」
僕は蘭学書を数冊抱えて歩いていると後ろから声をかけられた。
声の主は直亮様の遣いで翻訳を取りに来る西郷殿だった。彼は25歳くらいで僕よりも年上だが、なぜか僕の事を尊敬してくれている。
僕が家老である脇家の養子になって一年近くなるが、西郷殿の家も家老であるし、藩主に仕えている西郷殿の方が偉いに決まっている。
笑顔で駆け寄ってくる西郷殿に
「こんにちは。
翻訳を取りに来ていただけたのですか?」
「あっ、出来上がったのがありましたらついでに貰います。」
「別の蘭学書が手に入ったということですか?」
「まぁ、とりあえず落ち着ける部屋に行きましょう。
立ち話でする話でもありませんし。」
西郷殿に促されて、僕の作業部屋まで移動した。作業部屋といっても蘭学書の翻訳と鉄三郎様への英語教室に使っている部屋だ。
部屋の上座を勧めたがあっさりと断られてしまった。
目上の方に上座に座って貰うのが当たり前のこの時代でどうも西郷殿だけがそのルールを無視してくるから困っていた。
何度勧めても意味がないことを知っていたからこの話は打ちきり、
「それでご用件は?」
「実は鉄三郎様の元服のお話なんです。
本来なら昨年には行っているべきだったのですが、直中様が亡くなられた事もあり延期されていましたが、近々元服していただこうと思っております。
元服した後の名に関しては直亮様がお考えになられております。
鉄三郎様にも手紙でこの件は正式にお伝えしますが、従者である貞治殿にも色々と準備をお手伝い頂く事になりますのでよろしくお願いします。」
「なるほど承知しました。
元服の儀式はどのような事をなさるのですか?」
「最近はどこの畑も不作だと聞き及んでいますし、今回は弟君も同時に行います。
正直なところでいうと、鉄三郎様と弟君様の元服に関しては藩の財政と先代の直中様の14・15男という事もあり、あまりお金をかけずに月代をそる事と元服名を伝える事のみの質素なものになります。
直亮様も江戸滞在期間ですので、書面で元服名を送られることになると思います。」
「なるほど。ですが、質素なものであるならば準備も多くはないのではありませんか?」
「不作が続いているから財政は悪いのは事実ですが、ご兄弟の中には鉄三郎様をよく思われていない方もおられます。まぁ、学問も武芸も文化的な事にも優れておられるので嫉妬されている方が多いようですが、そういう方達からお守りする事も必要ですし、何よりご本人たちに末弟であるから質素にしましたとは言えないので、その辺の根回しといいますかいいわけといいますか・・・・・」
「要はフォローを入れておけばいいんですね?」
「えっ?ふぉろーとは?」
「あっ!すみません、しっかりと気づかれないように不作の部分でお金がないと言っておきますね。」
「よろしくお願いします。
あと、先ほど言われていた翻訳を頂けますか?」
「ああ、お待ちください。」
僕は大きな箱を取り出して西郷殿に渡した。この時代には製本技術も印刷技術もないので手書きで書いた巻物が数本出来上がる。翻訳に関してはタイムスリップした時にたまたま持っていた英語辞典で問題なくできていたが、すべて筆で手書きしないといけない事がかなりの作業となっていた。
「あいかわらず、すごい量ですね。
直亮様が暇さえあればずっと読んでおられるのも納得ですよ。
それでは、また正式に詳細が決まればお手紙でお知らせします。」
「ありがとうございます。」
西郷殿は笑顔で僕の渡した箱を持って帰っていった。
不作の話を聞くと鉄三郎様達にも見つからないように隠し持っている歴史の教科書にある天保の大飢饉が始まろうとしているのだと僕は思った。