落としてしまったんです
「すみません。」
駅員は後ろから声をかけられ、振り返った。
「どうなされました?」
「それが、あの、線路の中に落とし物をしてしまって、それで。」
そう言って女は困った顔をした。見てみると、暗くてよく見えないが、確かに何かが落ちている。
「わかりました。今、お取りしますので、少々お待ちください。」
駅員は終電が出たことを確認し、線路に降りた。当たりをつけた場所をライトで照らすが、それらしいものはない。
おかしいな、と首を傾げた駅員は女に向かって問いかけた。
「すみません、お客様が落とされたのはどのようなものでしょうか?」
「私の大事なものなんです。とっても大きいものなので、すぐ見つかると思います。」
「大きい、ものですか?」
駅員はライトを照らしながら訝しむような声を上げる。
女の言う通り、大きいものだと言うのなら簡単に見つかりそうなものなのだが……。
懸命に探すものの、一向に見つからない。
女の方を向き、再度尋ねる。
「お客様、落とされたものの特徴をもう少し、お教えいただいてもよろしいですか?」
それを聞き、女は悲しそうに笑ってこう答えた。
「一年くらい前のことね。私、その時も線路に落とし物をしてしまって、その時はね、駅員さんに何も言わず、自分で取りに入ってしまったんです。」
「は、はあ。」
意味のわからない話を始めた女。駅員は呆気に取られる。
「それでですね、ちゃんと落とし物が見つかって、それで私はホッとしてたのですけど、気づいたら電車が近づいてきていて、しかも時間が遅かったものですから、非常停止ボタンですか? それを押してくださる方もいらっしゃらず、それで。」
ゴクリ。
駅員は思わず、唾を飲んだ。
女はしみじみと、それでいて暗鬱な調子で続ける。
「それで、電車から逃げようと、逆の路線は走り出したんです。ですけれど、それが間に合わず、それで……。」
そう言って女は、くるりと後ろを向いた。
「え?」
駅員は驚いて声を失った。
女の背中には何もなかったのである。
抉り取られたように、背中は窪み、血と肉、そして骨が露出している。
何か、大きなものに潰されたようだった。
「それで、また、落としてしまったんです。私、今度は背中をー。」
そう言って女は後ろ向きに歩いてくる。
ヨタヨタ、と血みどろの背中が近づいてくる。
「え、え、え?!」
よちよち歩きの女は時折、バランスを崩しながらゴキっと肩の骨を外して腕を背中の方に突き出した。
「嘘、え? 嘘、え? いや、いやああ!」
駅員は後退りしながら絶叫する。体が固まってこんなに恐ろしいのに全く動いてくれない。
震える。寒い。目が離せない。
のろり歩きながら黄色い線を越え、サッと線路の中に降り立った。
駅員は脳で何かが焼き切れるのを感じた。
「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫を上げてその身を翻し、女から逃げようと走り出し……。
プワーーーーー!
電車の音と強力なライト。駅員の顔が固まった。
おい、人だ、人が轢かれた!
救急車、救急車!
絶叫、呟き、怒鳴り声。
尋常ではない喧騒が駅を包み込む。老若男女様々な声があちらこちらで聞こえ、出勤時のそれを凌駕していた。
……駅員はうつ伏せに倒れ込んでいゆ。彼女の周りからは音が消え、不思議な沈黙が溢れかえっていた。
その背中は抉り取られたように空虚で、その瞳にはもう光はなかった。
「そういうわけで、私は落とし物をしてしまったのです。ですけれど、あなたのおかげ。あなたのおかげで、私の背中、見つかりました。」
女はにこやかに微笑んだ。
実に幸福そうな美しい笑顔だ。
ピクリとも動かない駅員相手に女は依然として喋りかける。
「私のためにありがとう。これで無事、家に帰れます。本当に、ありがとうございます。」
深々と女はお辞儀をした。
その背中には血みどろの肉塊がくっついていた。