遠見の広間へ。
城に明かりが灯る。
でも本数はとても少ないし、空を厚く覆う雲が月を隠しているから、フラド城周辺は真っ暗闇に近い。
草の繁みに潜んでずいぶん経つ。
落ち着かない気持ちで、城からの薄明かりにぼんやり浮かび上がった地下への扉を見た。
「亡霊は追ってきてないみたいですね」
まるで私の心を読んだようにタチアナさまが呟く。
「地下から動けないのかしら」
「なるほど…」
前世で言う地縛霊ってやつかもしれない。
一定の場所でしか現れない幽霊。
それきり私たちは声をひそめて、ただひたすら時間が過ぎるのを待つ。
ぽつり、と雨が降ってきた。
空を見上げる間に、雨粒が増えていく。
「強くなりそうですね」
「どこか雨宿りのできる場所に移動しますか?」
「そうだな。でもどこへ行くか……」
マリオおじいさんが思案する気配。
と、私のそでを誰かが引いた。
目をやれば、まぁるい小さな光。
「精霊さん?」
光の中心が蛍光緑。土の精霊だ。一つ、二つと増えていく。
よかった。一瞬、亡霊かと思ったよ~。
「聖女さま?」
「土の精霊たちがきてくれたんです」
暗闇に不安がっていた私を気遣ってくれたのかな。心強い。
「ありがとう。あなたは大丈夫?」
水の中にいる精霊たちみたいに苦しんでいないか、じっと観察する。うん、問題なさそう。
そっと撫でたら、うれしそうに私の手にすりすりしてくれた。猫みたい~! かわいい~!
しばらくすりすりした精霊は、私のそでにしがみついて持ち上げる。されるがままにしていたら、大木の方へ誘導された。
「大きい木だね」
樹齢はどのくらいだろう。私の部屋の側にいたトネリコよりも幹が太い。この木肌、どこかで触れたことがある……。
「あ、桜!」
「よく知ってるな」
小さな松明を灯したマリオおじいさんとタチアナさまが私の後ろに立つ。
「この国ではあまり生えない樹だ。知ってるのは山の民か、植物の専門家だけで……そういえば緑の聖女だったな」
「さすが聖女さま。お詳しいんですね」
「いえ、この樹は……」
日本ではありきたりで。きれいで、華やかで、散り際は切なくなって……。
入学式や卒業式で、歩いているふとした瞬間に目に入り、時を忘れて見とれる。そんな生活に根ざした樹。
木肌に触れたら思い出が脳裏に押し寄せた。
「聖女さま?」
「なんでも、ないです」
おっと、ついぽろりと涙が出た。
記憶の中の風景へは戻れない。こんなに懐かしいのに。
会いたい人たちがいっぱいいるのに。
なんで私、前世の記憶なんか思い出しちゃったんだろう。知らないままでも今世で幸せに生きていけたと思うのに。
神様の仕業だったら、説明責任を追及したい。
ぐすっと鼻をすすりあげたら、精霊が頬にすり寄ってくれる。
「ごめん、大丈夫。この桜がどうしたの?」
気を取り直してそう問えば、精霊は私を上へ引き上げようとした。
「登れって?」
精霊と呼応するように金剛杖もポケットの中で震える。
私は二人を振り返った。
「精霊が桜に登れって言うんです」
「木の上で隠れろってことか」
「そうだと思います」
「よし、わかった。タチアナ、先に行け」
「はい、マリオおじさん」
さすが昔とった杵柄。タチアナさまはするすると上手に三メートルほど登る。
「聖女、行けるか?」
「足場が見えない……」
暗いし、山の民みたいに小さなとっかかりだけで登っていくのは難しそう。
「俺の手に立て。タチアナ、上で補助しろ」
「はい」
「え、ちょ……」
マリオおじいさんは両手の平に私の足を乗せ、ひょいっと重量挙げの要領で腕を天へ伸ばした。
「こわっ!」
あっという間に視界は三メートルの高さへ。目の前にタチアナさまがいる。
「聖女さま、この枝を持って、こっちに足を掛けて」
「はいぃぃ」
あのじいさん、どんだけ筋肉あるんじゃぁぁ!
っていうか、もうちょっと説明してから行動してほしい。
心臓バクバクしてるよ!
心の中でなじりつつ、大人しく枝に掴まってたら、タチアナさまがもう二メートルほど上へ私を誘導した。
下からマリオおじいさんも登ってくる。
「うん、聖女はそこにいろ。下に俺とタチアナがいれば寝ぼけて落ちてもキャッチできる」
「こんな状況でのんびり寝れませんよ」
そう言いつつ、周囲を見渡す。
雨は上の方で生い茂る葉によってさえぎられているが、城の輪郭やわずかな光を反射する湖面が見える。
「執務室の明かりが……」
タチアナさまが目を凝らして城の一画を見る。
「ロケたちがまだあそこにいるのね」
「降伏か、立てこもりか審議してるんだろう」
「あのぉ…領主の周囲の人って、病いに罹ってないんですか?」
あの、ぼんやりしたり体調不良になったりのやつ。
「程度の違いはありますが……ほとんどの者が罹っていると思います」
「それで審議とか出来るのかなぁ」
不思議だ。
「でもあの病いのおかげで俺たちが行動しやすかったし、今も見つからずに済んでいるんだと思うぞ」
「そっか…」
マリオおじいさんの言葉に頷く。不思議な病いのこと、ありがたいって思った方がいいのかな?
雨は止まない。
下を見れば大きな水たまりがそこかしこに出来ている。
と、いうよりすでに陸地のほとんどが水没しはじめてないか……?
私の視線に気付いた二人も、下を見て絶句した。
「水が…」
「マリオおじいさん、まずくないですか?」
「そう……だな」
その声にパシャパシャという音がかぶる。
亡霊かと身構えたけど、マリオおじいさんが「ルイだ」と呟き、短い指笛を鳴らした。
それを聞きつけて、すぐにルイさんが桜の樹を登ってくる。
「そこらじゅうで水が溢れ始めた」
「やっぱり……。城の方は?」
「城壁内に浸水して、一階の床まで来てる」
「……城で働く者たちは?」
タチアナさまが硬い声で問う。
「命令が解除されてないから、聖女とタチアナを探してぼんやりうろついてる。みんな水浸しだ」
「そんな…」
「病いにかかった者たちに逃げるという判断はできないようだな」
「……館の女たちは?」
「わからない。光で合図を送っても返信がないから、雨粒で見えてないんだろう」
ルイさんがもたらす情報に楽観視できる要素が何にもない。
私は不安で木肌にしがみついた。
水が来ているなら…私を助けてくれたトネリコの木は無事だろうか。
土のある部分が水没したら土の精霊や樹木はどうなるの?
私のお世話をしてくれた女性たちも…このままではみんな水に飲まれてしまう。
「誘導、しましょう」
私は寒さと恐怖で震える腕を木肌に巻き付け、言う。
精霊は見つけ次第私の側に集まってもらう。人間は……。
「この城にいる人たちを助けなくちゃ」
「でも、どうやって?」
「私が姿を見せれば追ってきますよね?」
「そんな」
「領主に気付かれないよう、私を探してる人の前に出ます。そのまま上の階に連れていく」
今、最も安全なのは城の上階だ。
「危険です。ならば私が囮になって……」
「それもお願いします。私とタチアナさま二人でやればもっと早く避難誘導できますよね」
「聖女が動くのはまずいだろう」
「でもそうしないと誰も助かりませんよ」
人も精霊も、見殺しにはできない。
この押し寄せてくる水をどうにもできない私にはこんな手段しかない。
「……最上階に、遠見の広間と呼ばれる場所があります。そこなら全員入れます」
「タチアナっ?」
「待機中は山の民がまとめ、全員の誘導が終わったら、私が指揮をとります」
「タチアナさま……」
こわばって、でも決意を秘めた顔でタチアナさまは私を見る。
「領主の妻として、城の人間を守ります」
「……はい」
「避難させ終えたら、聖女さまはその中に紛れていただきます」
「え、でも…」
「人の中にいれば目立ちませんし、暗いので見つかることはまずないでしょう」
その言葉に素直に頷けない。
だってそれ、万が一が起きた場合、他の人を盾にすることになる。
「うん、それがいいな」
「ルイさん」
「聖女さまは我々が巻き込んだんだ。無傷でお返ししなくてはならない。そうだろう? マリオ」
「……あぁ」
マリオおじいさんは私と目が合うと、気まずげに目を伏せた。
ふらり、ふらりとぬかるみを歩く兵士。
疲労の色は濃いのに足は止めない。緩慢な仕草で周囲を見渡し、置かれている木箱の中を検め、無人の小部屋をのぞく。
その目には生気がなく、まさしく亡霊みたい。
いきなり飛びかかられたら怖いなと思いつつ、廊下の曲がり角から、半身を出した。
それでも気付かれないので、床を木靴で軽く叩く。
コツンと小さな音に兵士はのろのろ顔を上げた。
どんより濁った目が私を捉え、スローモーションのように向かってくる。
私はその距離を変えないよう速度を測りながら上階へと誘い、山の民が待つ広間へ入る。
兵士は覚束ない足取りで広間に入り、そこで山の民にゆるく拘束された。
「聖女は見つけたので、ここで休むように」
ルイさんがそう言うと、兵士はかくりと床に座り込む。
「この調子でどんどん集めるぞ」
「はぁい」
マリオおじいさんが護衛がてら一緒にいてくれるので、ルートにも迷わない。
道々で見つけた色んな色の精霊たちにも声を掛けて、広間か私の周囲にいてくれるようお願いした。
土だけじゃなくて、他の精霊にも声が届いてるみたいでホッとする。
土の精霊が見えるようになって、他の精霊も見えて、色でなんとなく属性が分かって、話し掛けるようになって……。
自分にできることが増えたからか、精霊たちとの関係もより密接に感じる。
こんな時なのに、それがうれしくて仕方ない。
「無事に戻ったら、温室の作業の合間にいっぱい精霊の勉強しよう」
まずはリオネルさまに相談だな。今、海軍の船に乗ってるんだと思うけど、元気かなぁ。
がんばりすぎて疲れてないかな。
温室のトマトたちも、早く会いたい。お父さんたちにお願いしたから問題ないと思うけど。
王宮で会ったやさしい人たちも、懐かしい。ミリアムさまのやさしい笑顔や、カミラさまのおいしいお茶が飲みたい。食堂の人たちもエイミーさんたちも元気かな。
なんだかすごく昔のことに思えるよ。
そして……。
外を見れば真っ暗闇。湖面も地表も区別がつかないけど、あのどこかにレイモンドさまがいてくれるはず。
戦いでケガしないでほしい。無事でいてほしい。
また一緒にのんびりお茶を飲んで、トマトの出来を見つめたい。
夜市も楽しかった。また行きたい。
そんなことを思いながら、とにかくあらゆる場所を歩き回り全員を集め終えた。ただし、ロケたちを除く。
あの人たちは一室に籠ったまま、出てこない。城内で私たちがどんだけ動こうが気にしてないみたいだ。
もしかして寝てるのかもしれないな。そうだとしたらちょっと殺意が湧く。私なんか異常興奮してるのか、まったく眠くならないし、疲れも感じてないのだ。
反対に、広間に集めた人たちはみんなぐったりとして、誰も声を出さない。寝てるのかと思えば目は開いていて、やっぱりぼんやり焦点が合っていない。
「みんな疲れてるみたいだけど、何か口に入れてもらいますか?」
「いや、動かない方がいい。彼らも我々も」
見つからないための最善策ってことかな。
「ルイさん、水の状態は?」
「一階部分は腰くらいまで水没してます」
「館の様子は」
「相変わらず、雨霧でまったく見えない。我々と同じように上階に避難していればいいんだが…」
「館は城より低い。早めになんとかしないとまずいぞ」
マリオおじいさんが館のある方向を見据え、厚みのある大きな手をぎゅっと握り込み、感情を抑えるように言う。
「そうですね。雨足は弱まらないし、水はどんどん増えています。夜明けまで持つかな…」
このままではいずれ、城も館も水没してしまう。
「脱出するなら船が必要だ」
「ロケが壊した船を修理するのはどうだ?」
「暗すぎて作業出来ないだろう」
「火を焚いて作業すれば…」
「すぐ領主に見つかるぞ」
「夜明けになれば国王軍の攻撃が始まる。勝敗がすぐに付くなら、やっぱりここで待機が正解だろう」
数人の山の民たちが議論している。
それを聞きながら私も必死で考えた。
攻撃されたらロケは応戦するだろうか?
城の兵士のほとんどがこの広間にいる。しかもみんな病いに罹っているから、迅速に動けるとは思えない。
山の民が言うように戦端が開かれることはないだろう。
降伏するなら夜明けを待たず、白旗を振ればいい。
国王軍と海軍の合間を縫って小舟で逃げ出すつもりなら、夜の間が一番成功確率が上がる。
でもロケは動いていない。
なんでだろう。
「あ!」
「聖女さま?」
声を上げた私に山の民の視線が向く。
私は頭に浮かんだことを、慎重に考えをまとめながら口に出した。
「あの、もしかして」
「はい」
「領主も病いに罹っているのではありませんか?」
「え?」
タチアナさまはきょとんと首を傾げる。
タチアナさまは自分の状態がおかしいと自覚していたけど、ロケは他の人と同じように自分の変化を気付かないまま過ごしていたのではないか。
なので今も無気力だったり、判断力が鈍ったりしてるのかもしれない。
そう言えば、タチアナさまたちは無言で黙り込む。
みんな忙しく考えを廻らせているみたいだ。
ロケに一度会った時は妙にハイテンションで元気そうに見えたけど、目はどんよりとしていた。何より、城に蔓延している病いに一人だけ罹らない方がおかしい。
「なるほど……ちぐはぐな行動も病いのせいかもしれない」
「だが、それはいつからだ?」
「悪癖は前からだろう?」
ルイさんたちに見つめられ、タチアナさまはおでこに手をやり、口を開く。
「ロケと話が噛み合ないと思い始めたのは、様子が変だと思ったのは、去年からだわ。でも……」
「みんながおかしくなり始めた時期と同じか?」
「いいえ。それより、もっと前……。リノさまとの口論が増えた頃よ」
タチアナさまは呆然としている。
「領主になった頃はまだ良かったと思う。それからリノさまと対立して、段々人の話を聞かなくなって」
「ぼんやりすることは?」
「部屋に私たちだけでいるときはしょっちゅう。口もきかないし、目を合わせないから、私といるのがつまらないのだと思っていたけれど」
下手の横好きだったボードゲームに興味を示さなくなったのもその頃だと呟く。
「あの人も……病いに……?」
可能性は高い。
しかも誰よりも早く、罹っていたようだ。
「ルイ、もしそうならあの人を治せるのかしら」
「……この病いは原因が分からない。薬では対処できないと思う」
「私は聖女さまのおかげで目が覚めたと思うの。ロケのそばに聖女さまが常にいてくれたら、もしかしたら…」
「え、侍るのは無理!」
タチアナさまの視線を受けて、速攻で断った。
「だがしかし可能性はあるな。最初の予定通りにいっていたら、もしかして」
マリオおじいさんが何度も頷く。止せ、それ以上言うと一生恨む。
睨みつけたら、また気まずそうに口をつぐんだ。よし。
「それよりも、ですね。今はなんとかして全員が生き延びることを考えた方がいいと思うんです」
「そうだな、病いを治すのはその後だ」
ルイさんが賛同してくれた。
ホッとして私はまた考える。
「もし攻め込まれたら、無抵抗でいればいいと思います」
「あぁ、国王軍は無闇に切り掛かってこないだろう」
「だから、今やっておくべきなのは、水への対処です」
この調子で水が上がってきたら、ここも危ない。
窓から外を見れば、空はまだ真っ暗。
遠くに稲妻が一つ。雷雲だ。
照らし出された山の民以外の人々は、鋭い光にも反応を示さない。
水はすでに二階部分に到達しようとしていた。