地下牢で。
「最初はそんなにダメな人じゃなかったんです」
タチアナさまはそう呟いた。
「いつ頃出会ったんですか?」
「七年ほど前、豊穣感謝の祭りで見初められそのままトントン拍子に話が進み婚姻しました」
語る表情はどこか懐かしげに微笑している。
「私は十七歳。小娘で突然の話に舞い上がっていました」
「好きだったんですか?」
「……選ばれて、うれしかったです。当時は今ほど肥えてなく見目良かったので領民にも人気がありましたから」
明るくて、分け隔てなく誰とでも語り合う人だった。よく城下に降りては、民と飲み交わし酒場で酔いつぶれて…と語るタチアナさまは幸せそうだ。
そう言えばレイモンドさまの話だと明るくて大らかなところもあったって言ってたなぁ。
「私は山で地味な生活を送ってましたけど、彼と出会ってからの時間は華やかで楽しく、何もかもが魅力的でした」
それは分かる。
私はうんうんと頷いた。
「だから深く考えず妻になり……その後、彼の悪癖を知った時はショックで水も喉を通らなくなりました」
「悪癖?」
「女性や飲食にだらしなかったんです」
あちゃ~。
「女性の方は立場を多少考えていたようで、私に見つからぬよう用心していました。けれど大酒を飲み貪るように食べる。それでもまだ本人にしてみれば抑えていたようです」
「抑えていたとは?」
「前領主のお義父さまの手前、良い子を装っていたんだと思います。お義父さまの病状が篤くなり、亡くなる一年ほど前に後継者に任命されたくらいから大っぴらに女性や酒を求め始めました。お身内の言葉も無下にして」
「身内というと…?」
「双児の弟、リノさまです。お義母さまは十年ほど前に逝去されていますので」
「領主には兄弟がいたんですか……」
しかも双児とくれば当然後継者争いがあっただろう。
そう言えばタチアナさまが深く頷いた。
「本人同士というより、彼らを担ぐ周囲の思惑でした。リノさまはどちらかと言えばもの静かで争いを好まない方ですし、ロケも深く考える性質ではありませんでしたから」
ロケ派の領主補佐とリノ派の財務長。この二つの派閥がしのぎを削って争っていた。
「ロケ…さまが領主に決まった決め手は?」
「水面下では色々あったようですが、決定打は私の出産でしょうか」
「え、お子さん?」
「はい」
それを聞いて私は思わず腰を浮かした。
「子供…ってことはタチアナさまのお子さんですよね。一緒に隠れなくちゃ」
「いえ、もういないのです」
「まさか……」
「去年、私の手の届かない場所へ行ってしまいました」
二の句が継げず私はタチアナさまを見つめる。
「その子が生まれると前後し、前領主が死去してロケが跡を継ぎました。祝賀ムードで領内はさらににぎやかになり、ロケの悪癖も加速していったのです」
「それは……つらかったですね」
産後に夫が女遊びをして妻を省みないって、前世なら即離婚案件だ。今世だって、周囲から後ろ指差されて離縁を勧められるだろう。
「リノさまは領主の弟ですし、文官として政務に加わり始めましたから、度々ロケを諌めてくれました。でも余計にそれが亀裂を生んで、二人の間はもう修復不可能な状態になってしまったのです」
その頃になると領主の性格や態度が影響してか、領地全体が享楽的になっていった。その流れに異を唱える者は周囲に排され、じりじりと経済は悪化してく。
「城下では食い詰めた人たちの軽犯罪が増えました。でもロケの指示は場当たり的で解決にならないんです。見かねたリノさまがフォローしていましたが……」
「効果がなかったんですか?」
「効果があれば、ロケの手柄。なければリノさまの手腕不足とされました」
さいあく~。
聞いてるだけで腹が立つ。
「私はその頃第二子を出産し、育児に追われ世事すべてに背を向けていました」
「そのお子さんは…?」
「その子も去年……」
細い首を折るようにタチアナさまはうつむいた。
「去年……といえば、水害が起こったんですよね」
「はい、春先に。その影響で領内の経済に大きなダメージが出ました」
「たしかフラドは農産地ですよね」
「そうです。メインの小麦だけではなく、他領に出荷する野菜なども例年の半分ほどしか収穫できず」
「確か国から支援が入ったと聞いてますけど」
他ならぬレイモンドさまのお仕事だったはずだ。
「はい、おかげで民に暴動が起きるような事態には至りませんでした。けれど、国の支援を受けるために査察が入り、帳簿などを詳しく調べられたんです」
「都合の悪いことがいっぱい出てきたってことですか?」
「そうです。経済状況や行ってきた政策に大鉈を振るわれ、領を立て直せとの指令が下りてきました」
できなければ領主交代になるだろうし、復興事業が整えば民は国に感謝する。
それを厭い、ロケはさらに酒と女に溺れた。
夫婦仲もさらに悪くなってたんだろうなぁ。
「あの……クーデターとかは起きなかったんですか?」
「ロケは有力者から人質を取っていたんです」
「人質…」
「館の女たちです。人質のことを考えるとみんなうかつに行動できなくて」
打開策が打ち出せないロケに度重なる国からの厳しい要求。そして周囲からの突き上げ。
「ロケは追いつめられていたんだと思います。ある晩、リノさまと口論になってもみ合いになりました」
結果、リノは反逆罪で捕らえられ、追放された。
「行き先は?」
「わかりません、教えてもらえなかったんです」
お助けできなかったと悔やむタチアナさまの顔を見て、ふと、ロケにも領主としての重圧があったのかもしれないなんて考える。
上に立つ資質がない人がその地位に就くと、たぶん想像以上に心が蝕まれるはずだ。
「ロケは領主に向いてなかった」
まるで私の思考を読んだように、タチアナさまがつぶやく。
「本人も心のどこかでそう思っていると思います。自暴自棄になっていますから」
その言葉に我が意を得たり! と頷きたくなるが、現状の打開策が浮かばない私がロケを責めるのはおこがましい。
私は凍えそうな指先を小さな囲炉裏に向けて温めた。
「雨が多くなったのはいつ頃ですか?」
「去年の秋です。気候が不安定になりました」
「洪水になったんですよね」
「始まりは……雨漏りが増えたんです。城内に」
「城内に?」
そういえばマリオおじいさんからも同じことを聞いたなぁ。
「廊下に水たまりが増えて、城内を簡単に行き来できなくなりました」
特にロケが動くと水量が増えたという。
「その頃、城の周囲はまだ普通でした。土がぬかるんでいる程度で。けれどいつしか城と女たちの館の間に川が出来たんです」
「川が出来た?」
「はい。雨はどんどんひどくなり、川が出来て、ロケが館に渡れなくなりました。ならばと女たちを城に住まわせようとしたら、さらに水量が増しました」
「分断されたってことですね」
「そうです。小舟での行き来はできましたが、あっという間に今のような状態になりました。ちょうどその時期から城で働く人間もおかしくなってしまって」
「みんなぼんやりしてますよね」
「えぇ。何かをお願いすれば動いてくれるし、仕事は緩慢だけどやってくれます。でも目に生気がなくなり、ろくに言葉も発しなくなりました」
「みんなですか?」
「みんなです。マリオおじさんたち以外は」
「タチアナさまも?」
「正常だと思いたいです」
自信はないんです、と小さく呟いた。
「私も始終、頭の中がぼんやりしてて……。何かしようと思っても体が重く、動くのも億劫で」
「でも今はこうやってちゃんと話をしてくれてるし……」
そう言えばタチアナさまが大きく深呼吸した。
「たぶん、聖女さまが来てからです」
「え?」
「聖女さまが城に運ばれてきた頃から、意識が明瞭になる時間が増えました。今朝方、領主の間でお会いしてからは以前の私に戻ったような心持ちになりましたし、こうしてお話している間にどんどん力がわいてくるんです」
そう言われて何と返したらいいか、戸惑う。
そんな私の気持ちを察したのか、タチアナさまは微笑した。
「フラドは……以前、見渡す限り緑の大地でした」
山々に囲まれ、麦穂のそよぐ美しい田園風景。人口のほとんどが農作業従事者で、牧歌的な領。
「それが愛おしく、妻になったならこの土地や民を愛していくつもりだったんです」
目の前の小さなことに捕らわれ、いつしか志しを見失い、我が身を悲観ばかりしていた。
「聖女さまに領主の妻の義務と言われて目が覚めました」
「タチアナさま」
「私もやっぱり無気力という病いにかかっていたんでしょう。ロケへの慕わしさも多少は残っていますが、今は困窮している民や、この城で動けなくなっている人たちのために動きたい。いえ、動かなければ…」
もう遅いかもしれませんがとくちびるを引き結ぶタチアナさま。その周囲に小さな光が一つ二つ舞う。精霊がどこからかやってきたんだ。
「あ、そうか」
「聖女さま?」
「タチアナさまは山に住んでたんですよね。ルイさんもマリオおじいさんも」
「はい」
「だから土の精霊に好かれてるんだと思います。もし私が来てから頭がすっきりしたんだとしたら、金剛杖のおかげかも」
「金剛杖?」
「私の大切な相棒です」
ポケットを探り、ペンサイズになった金剛杖を取り出す。
「まぁ……」
「何も持ってないと言ったけど、これだけは」
「なんてきれいな色」
金剛杖は洞窟の薄暗い中、淡く発光している。
「金剛杖は土の精霊たちと繋がっています。聖遺物なんです」
「聖遺物…! ルイから話を聞いていましたが、直に目にすることができるなんてありがたい……」
相棒を褒められてうれしい。金剛杖もちょっと得意気に震えてる。
「金剛杖がここにいるだけで、土の精霊は元気になると思います。だけど他の精霊は私にはどうしようもなく……」
と言いかけてふと気付く。
洞窟、言わば土中なのに土の精霊の姿は私たちの周りにいくつかくらいしか見当たらない。
「なんでだろう」
「聖女さま?」
「あ、いえ……地下なのに土の精霊の姿が少なすぎるなぁって」
「そうなんですね。私には精霊たちの存在がわからないのでなんとも答えられませんが……」
タチアナさまはふと、周囲を見た。
「地上があんな感じだからか、ここも湿気と水滴がいっぱいですね」
「この水の量に土の精霊は負けてるのかな」
することもないのでいろいろ考えちゃう。
タチアナさまが炭を一つ足し、私を上目遣いで見る。
「なんですか?」
「城のみんながおかしくなり始めたころ、雨が続くのはリノさまの呪いではないかと噂が立ちました」
「呪い…」
「そんな馬鹿なとも思いましたが、追放された直後から雨が降り始めましたので」
炎が小さな音を立てて爆ぜた。
周囲からは冷気が絶えず迫ってくる。暗がりに何かが潜んでいるような気がして落ち着かない。
オカルトムード満載な状況。私は金剛杖を握りしめ身震いした。