湖のほとり。
さて、このさつまいもをどうしよう。
ここに来て二日目の朝、私は自分にあてがわれたテントの中でさつまいもをわくわくしながらなでていた。
「すぐに食べて味見したいけど、種芋としてキープもしておきたい。栽培方法も研究しないと」
前世で見たような丸まる肥ったほくほくの焼き芋が食べたい!
採取したさつまいもは固く小さめで、まだ理想とする姿には遠い。
茎や葉ごと採取してきた一株は木箱に土を入れて育ててみることにして、ほどほどの一つを煮炊きの火で一緒に調理させてもらおう。
「アイリーン、いるか?」
「はいっ」
植えたさつまいもと手にした種芋候補を見比べてにやにやしてたら、リオネルさまがやってきた。
白く輝く美貌にやや翳りがある。あまり眠れていないのだろうか。
「リオネルさま、お加減悪いんですか?」
「ちょっと疲れてる」
「ご用でしたら呼んでもらえば私からうかがうのに」
「それほどじゃない。今から私に付き合ってくれ」
「どこへですか?」
「湖」
リオネルさまはそう言って踵を返し、さっさと歩き出す。
テント外で待機してくれていたダニエルさんと一緒に付いていくと湖面には風が作った小さなさざ波が立っていた。
「少し離れていてくれ」
「はっ」
ダニエルさまに駆け寄れる範囲で待機してもらい、リオネルさまはしばらく無言で湖のほとりを歩く。
やがて大きいため息をついてからぽつりと言った。
「……これだけの精霊を統率しているならば、その力は私以上だろうな」
「リオネルさま以上?」
それって大神官の上をいくってこと?
チート以上のチートって想像付かない。
ぽかんとしていた私の顔を見てリオネルさまは噴き出した。
「まぬけな顔だな」
「だって…信じられません」
「事実をありのままに見たらそう思わないか?」
「えっと…わかりません」
こんなこと言っていいかな、と思いつつ見上げれば、リオネルさまの静かな微笑み。それに助けられて口を開く。
「この状態にどういう意味があるのか、分からないです。大変なことが起きているというのは分かるんですが…」
「まぁ、普通はそうか」
「正直に言うなら、私も普通の人と同じで精霊のことをちゃんと分かってません」
「私にも分からないよ、精霊のことは」
私はもう一度ぽかんとなった。
「大神官さまがそれを言っちゃうんですか?」
「人も生物も、精霊も同じだよ」
「なにが?」
「違う存在だから、相手のことを完全に分かることは絶対にないだろう」
あ、そういう意味か。
「私はすべての精霊から祝福されている。だからといって精霊という存在の何もかもを知ってるわけじゃないし、特別な存在というわけじゃない。ただの人間だ」
「はい……」
「祝福をされていることに馴れてはいけないといつも思うよ」
驕ればすぐに精霊は離れていくとリオネルさまは小声で呟く。
「アイリーン、例えば今ここで君が精霊に助けてもらったとしよう」
「例えばじゃなく、今も毎日助けてもらってますが」
「うん、それで君は精霊に何かを返してる?」
そう言われて私は言葉につまった。
何か答えなくちゃって思うけど、頭の中で色んな言葉が渦巻く。
土の精霊や金剛杖に今までたくさん助けられてきた。それに関して私は感謝の言葉を言うだけ。
それ以上は何もしてない。
だってお金や品物では返せない。
「ありがとうって言うだけしかできません……」
「そう、私たちは精霊に助けてもらっても彼らに返せるものは何もない。ただ気持ちのみ」
「気持ち……」
「その気持ちで、アイリーンはこんなことができるか?」
リオネルさまは目の前の湖を指差した。
元は人が住んでいた土地。すべてを覆い隠す膨大な量の水。
「……できません」
噛み砕いて話をされ、私はその重大さを今度こそちゃんと理解した。それと同時にゾッとする。
私は土の精霊に祝福を受けていると思う。
だけどここを土砂で埋めてくれってお願いして、精霊が了解してくれるだろうか?
は? 何言ってんの、やだよって反応されるのがオチだ。
何より私もこんなぎゅうぎゅうで、苦しそうな感じに土の精霊たちをつめこみたいと思わない。
ってことは、本当に……何でこんなことをしたんだろう。
「リオネルさま」
「ん?」
「もし……精霊の祝福を受けた子が行っているなら、何が目的なんでしょう」
「わからない」
「リオネルさまの言う通り、ちょっとお願いで出来ることじゃないですよね」
「そうだ。そもそも精霊たちは個々で、自由で、こんな風に縛られることを好まない」
だが、とリオネルさまは続けた。
「好まないと思っていたのは私の早とちりかもしれない。精霊の側では我々では計り知れない理由があるのかも」
「それはどんな理由なんでしょう」
「わからない。これまで当たり前と思っていたすべて覆されている。だがな」
「…はい」
「私には水たちが苦しそうに見える」
「はい」
それは全面同意だ。こくこくと強く頷くと、リオネルさまはフッと息を吐いた。
「ここにいる精霊たちはとても頑なに、私を拒否している」
「拒否?」
「生まれて初めての経験だ」
自嘲しているようにポーズを取るけど、私にはリオネルさまが悲しそうにしか見えない。
「けれどだからといって引き下がるつもりはない」
「どうするんですか?」
「ここに留まることをやめて自由になってほしいと話し合う」
「そして…この場所を離れてもらう?」
「あぁ、精霊たちを解放する」
「それで水は引くんですね?」
「精霊がせき止めている水は流れるだろう。だが……」
言い淀む先は私にも想像できた。
これだけ大量の水が一気に流れたら、またそこら中で洪水が起きるだろう。
リオネルさまの周囲を心配そうに風と土の精霊が飛び交う。
「現状が悪化しないよう説得するつもりだ。失敗したら水が、秩序を失って大変なことになるかもしれないからな」
自分に懐く精霊たちをやさしく撫でて、リオネルさまは殊更明るく言う。
「そうならないために繊細に話さなくてはいけない」
「私に手伝えることは……」
「そばにいてほしい」
違うシチュエーションで聞いたら、なんて胸ときめく言葉だろう。
でもリオネルさまの真剣な顔はそんな意味じゃないってのを如実に語ってるし、私も逆に気が引き締まる。
だって……影響があるのは水の精霊だけじゃない。
水のそばにいるのは大地だから。
これだけの容量を支え、水分をたっぷり含んだ土が、岩が、そこにある。
万が一、水が溢れ出したら土はどうなる? 水の勢いを受け止められるの?
私は金剛杖をぎゅっと握り直した。
そう。その万が一の時のために私は呼ばれたんだ。
「金剛杖さん、お願い」
土がまた流れてしまわぬよう、私が止めなくちゃいけない。
小声で囁けば、金剛杖がうわんと震えた。
私と金剛杖の決意が伝わったのか、リオネルさまがうれしそうに笑みをこぼして頷いた。そして右手をそっと宙にかざす。
「水よ」
静かで、いつもより深みのある低い声。
「私の声が聞こえるか?」
声に反応して波打ち際がさざめく。
「私の話を聞いてほしい。君たちを助けたい」
同様に声を掛けながら歩き、山から湖に伸びる細い道の前に立った。
「これは川跡か?」
「だと思います。枯れてますけど」
よく見れば湖との接点で水が固まり、壁ができている。不思議な光景に思わず指を伸ばしかけて、手を止めた。
「これ、さわっても大丈夫でしょうか?」
「もちろん。ただの水だから」
恐る恐る指で突ついてみる。感触がただの水なのに流れを全く感じない。めっちゃくちゃ違和感。
「どうだ?」
「正直言って、気持ち悪いです。これはおかしい」
「うん、そうだろう。この状態はおかしい」
リオネルさまの指先に小さな光が灯る。今まで見たことのない光量がカメラのフラッシュみたい。とてもまぶしい。とっさに目をそらして閉じる。
なんとか薄目を開けてリオネルさまの動きを追うと、光は段々光量を落とし粒子のように広がった。
「さぁ、動き出すといい」
リオネルさまの一言でそれらはオーロラのように宙を舞い、水の壁の表面をやさしく撫でていく。
「あっ」
ちょろりと一雫。
水が固まりから流れ出た。
蛇口をぎりぎりまで絞っているような水量。だけど、そこから確実に水は流れ始め、枯れていた川へと進む。
「そう、そのまま、ゆっくりと」
カラカラに乾いていた土底に水が沁み入っていく。
その瞬間、私にも分かった。
土は喉が渇いていた。
ここの大気は重苦しいほどの湿度を感じるけど、大地には水が流れていない。
水蒸気や湿度が朝露になって地上に落ちてたから木が枯れることはなかったけど、大地の内部はカラカラだったんだ。
きっとこのままだったら森は枯れてただろう。
私の感覚を肯定するように土の精霊たちがうれしそうに細く流れ出した雫たちを取り巻く。
まだ水が届かない数メートル先の川底の小枝たちに風が当たり、パキリと音を立てて崩れた。見るとそこら中、枯れ枝と枯れ草ばかり。
でもじわじわと少しずつ水は動き出している。いずれ潤い、流れていく。
リオネルさまは厳しい顔で水壁の表面を見ていた。
こめかみに汗がたくさん流れ出してる。
この湖にある水を一度にすべて排水したら大変なことになるから少しずつ、誰も気付かない程度にコントロールしているんだ。
それを息を詰めて見つめている私の横で、金剛杖がうずうずしはじめる。
「どうしたの?」
問うた瞬間、金剛杖からぽんと大きめの精霊が飛び出し、水が流れる先端に着地して潜り込む。
見ればうなぎとかアナゴが潜んでいそうな穴が出来ていた。
そこへ水は次々落ちて行く。
フッとリオネルさまが笑った。
「金剛杖も手伝ってくれるのか。少し水量を上げてもいいか?」
金剛杖がブンブン震えた。
「ありがとう」
目に見える湖に何も変わりはない。
だけど着実に水は動き始めた。




