入学準備品の中のあれ。
鳥の声が聞こえてきて、私は目を開けた。
薄紅色の布が貼られた天井。周囲には白いカーテン。見覚えのない風景に一瞬混乱する…が、すぐに状況を思い出した。そうだ、ここは温室だ。
身を起こすと、枕元にけやきの葉が一枚。
「どこから入り込んだのかな」
葉に触れると固くて肌にはちょっと痛い。でもひんやりしており、発熱後の指先に気持ちいい。
手に取りひらひら揺らせば、けやきの香りが漂ってきた。これのおかげだろうか。懐かしい夢を見た。
立ち上がって小窓を開ける。
まだ陽が昇り始めたばかりで、空は淡い水色。朝霧がゆっくり木立の間を流れていく。
樹々の根元を茶色い犬が駆け回り、その後をのんびりとグレーの作業着を着た男性が付いていく。
「あっ…」
「アイリーン?」
男性はレイモンドさまだった。
「おはよう」
「おはようございます。びっくりしました」
「びっくり?」
「飼育係さんかと思ったんです。まさか王子さまだとは」
「けっこう様になってるだろう?」
レイモンドさまはおどけて両手を広げ、着ていたつなぎを見せびらかした。スタイルがいいので、そつなく着こなしている。
「気分はどうだ? 起きて大丈夫なのか?」
「はい。一晩寝たらすっきりしました。レイモンドさま、その犬は?」
「去年拾ってきて、王宮で飼っているんだ」
体は茶色い毛だが、四肢の先だけ白くてくつしたみたい。
「かわいいですね。お名前は?」
「ソックス」
「……」
「俺じゃない。下の弟が名付けたんだ」
「考えることはみんな一緒なんですね」
焦った様子のレイモンドさまについ笑ってしまう。
「レイモンドさまがお散歩係なんですか?」
「ソックスは普段、厩舎にいてな。俺が朝駆けする時や、気が向いた時にこうやって走らせてる」
朝霧の中でソックスにやさしく微笑むレイモンドさま。絵になるなぁと、つい見とれた後に気付く。
私、寝起きで顔も洗ってない。頭もぼさぼさだ!
慌ててシーツを頭からかぶって隠れる。
「どうした、いきなり」
「はずかしくて」
「何が」
「寝起きで…髪もぐしゃぐしゃで…」
身の置き所がない気分だ。
そういえば以前にもこういうことがあった。
寝る前にレイモンドさまが訪ねてきて窓越しに話したんだ。あの時は恥ずかしいとか思わなかったけど…。
王宮にだらしない格好をしている人はいないし、美形も多い。夜市で見た王都ではおしゃれな人が多かった。
それを知ったせいかな。
今世の私にも人並みの羞恥心というものが芽生えたみたいだ。
私はよりしっかりシーツに包まった。
「…悪かった。女性に対し、俺が失礼だった」
「いえ、私もうかつで…」
「まだ空気が冷たい。体を冷やすなよ」
立ち去ろうとしたレイモンドさまは足を止め、そっと手を伸ばしシーツ越しに私の頭をなでる。
「…もし、アイリーンが村に帰りたいなら遠慮せず俺に言ってくれ」
「えっ?」
「ここに来てもらったのは俺のわがままだからな」
レイモンドさまは俯き加減に声を潜めた。
「俺としてはこのままここにいてほしい。だがアイリーンにさみしい思いをさせたいわけじゃない。両親がいて、育った場所の方がいいと思うなら、それを無視するつもりはない」
レイモンドさまの言葉に昨夜の夢が蘇る。あの村の、あの大樹の元へ帰りたい。確かにそう思った。でも…。
私はレイモンドさまの目をじっと見た。
「レイモンドさまのわがままで私はここに来たのではありません」
「だが…」
私は首を横に振った。
レイモンドさまに誘われた時、私はジミーのことで人に噂され辟易してた。きっと無意識下でこの状況から逃れたい、外に出たいと考えていたんだろう。
温室で野菜に挑戦したいなと思ったし、私自身にとって良いきっかけだったんだ。
うまく表現できなくてたどたどしくなったけど、なんとか私の思いを伝える。するとレイモンドさまが切なそうな顔をして、またうつむく。
気を遣われたかな。私は急いで言葉を続けた。
「ホームシックは正直あります。だけど、私はこの温室できちんと仕事をしたいです。それに新しい人に出会えたり、初めて知ることがいっぱいあって、毎日楽しいんです」
「そうか…。イヤではないのか?」
「もちろんです」
力強く頷くと、よかった…とレイモンドさまは呟いた。
「もし村に戻りたくなったら、ちゃんと俺に言え」
「はい。野菜作りが一段落したら一度は帰りたいかも」
「その時は俺も一緒についていくからな」
ここでソックスが待ちくたびれたとばかりにワンと一声吠える。
「わかったよ。まだ寒いだろう。アイリーンはベッドに戻れ」
「はい」
「また後で様子を見にくる」
レイモンドさまは手を振るとソックスと共に走り出し、木立の中に消えた。
「目が覚めましたか? アイリーンさま」
完全に陽が昇ったころ、カミラさまがカーテン越しに声を掛けてくれた。
「はい、起きてます」
「まだベッドからは出ないでくださいね。お医者さまをお呼びしますので」
しばらくしてやってきたお医者さまはずいぶんお年を召しているのか、髪もヒゲも真っ白だ。
私の喉や脈を診たり、体温計なんてないから、おでこに触れて熱を測ったり。
「ふむ、喉に少し赤みが残っているな。あと二日は薬湯を飲むように」
そう言って厳めしい顔を崩さないまま、早足で出て行く。お礼を言うスキもなかった。
「あの方はいつもああなんです。愛想がなくて…。でもまぁ見立ては正確なのでご安心下さい」
「はい。もう起きてもいいんですよね」
「お食事を摂って少し様子を見てみましょう。下がったと思って油断していたら、子供の熱はまたすぐに上がるんですから」
うすうす感じてたけど、カミラさまにとって私は子供枠らしい。前世の年齢を足すとカミラさまとそう変わらない気がするけど、やさしくされるとうれしくて甘えちゃう。ぶっちゃけ精神年齢なら、まだ幼い自覚はある。
用意してもらった朝食はミルク粥で、食べるとおなかがぽっと温かくなった。すると途端にまぶたが重くなってくる。
食後に薬湯を飲んで、午前中はそのままベッドの上でうつらうつらしたり、ぼんやりしながら過ごす。
お昼を過ぎてカミラさまのお許しが出たので、やっと隣の温室へ行けた。
一歩足を踏み入れると、室内は程よく暖かい。テーブルで本を読んでいたミリアムさまが、私を見るとうれしそうに立ち上がった。
「もう熱は下がったようですね」
「はい、ご迷惑をお掛けしました。もしかして…薪を足しておいてくださいました?」
「はい。温室内が冷えすぎないようにと思いまして」
「ありがとうございます!」
温室のことをすっかり忘れて寝ていたけど、朝晩はかなり冷えていたはずだ。けれどミリアムさまのおかげで室温は一定に保たれていた。ありがたい。
一日ぶりに会うトマトたちに大きな変化はなく、順調。順調すぎて、一番よく成長しているトマトにちょこんと長めの脇芽が伸びていた。
脇芽ってば、ちょっと目を離した隙にぐんぐん伸びてくるんだよね。私はその脇芽をかいて、コップに水を入れて挿す。
「それをどうするんですか?」
だまって作業を見ていたミリアムさまが首を傾げた。
「挿し木にできたらと思って」
「挿し木…」
「しばらく水につけておくと根が出てくるんです。それを土に植えて株を増やすやり方もあるので」
「種からだけではなく?」
「はい。挿し木で増やせたら、種に頼りすぎずに済むんですよ」
生命力の強い株みたいだから、可能性はある。無事に育つといいな。
コップを両手で持って目の高さで祈る。
「あの…アイリーンさま。病み上がりなのに申し訳ないのですが、お願いが」
ミリアムさまは私を気遣うように口を開いた。
「なんでしょう」
「あの穴あきクッションを私も縫ってみたいんです。教えていただけませんか?」
「もちろん、いいですよ。ご自分用ですか?」
何の気なしに聞いたら、ミリアムさまが赤面する。
「アイリーンさま、クッションの噂をご存知ですか?」
「噂というと…もしかして恋愛成就の?」
「そうです。それで…その、あの…私も渡したくて…」
「お手伝いします!」
私ははにかんでもじもじするミリアムさまの両手をがっしりと握った。なにこれ、かわいすぎるイキモノ!
「ありがとうございます。急ぎませんので、体調が戻ったら…」
「もう戻りました。むしろエネルギー満タンです。さぁ、縫いましょう。生地はありますか? 何色にしますか?」
遠慮か、私の態度にドン引きか。ややためらいつつ、ミリアムさまが大きな包みを差し出した。
「生地はこれにしようかと…あちらのお好きな色なのです」
「鋼色ですね。刺繍は入れますか?」
「イニシャル程度なら…できると思います」
「では縫い糸は銀と青色でどうですか?」
青の糸はアイスブルー。もちろんミリアムさまの瞳の色だ。鋼色の布地に刺すときれいに映えるだろうな。
ランチを終えると、私たちはさっそく針仕事を開始した。
ミリアムさまは穴あきクッションを。私は旅行用まくらを。
レイモンドさまがお茶をしに来るまで、もくもくと二人で針を動かし続けた。
「アイリーン、起きてて平気なのか?」
「問題ありません」
むしろミリアムさまのおかげでパワーとやる気がみなぎってる。
しかし王子さまを無視して作業に没頭するわけにはいかないので、針を置いてレイモンドさまの前に座った。目と指はそれなりに疲れていたらしく、お茶が美味しい。
今日のおやつはアップルパイだ。食いしん坊の私が目を輝かせたら、カミラさまが微笑した。
「王宮にりんごの樹がたくさんあるので、この時期はりんごのお菓子が私たちにも振る舞われるのです」
「そうなのですね。すごくいい香り」
「味も良いんですよ。シェフが私たちの要望に応えてお砂糖控えめにしてくれて…。けれど天然の甘味があるでしょう?」
一口食べる。言われた通り、口の中に後を引かない甘さが広がった。遅れて酸味がくるけど、それがまたすっきりおいしい。生地はさくさく、りんごはしっとり。
あまりのおいしさにあっという間に食べ終えてしまう。
「まだおかわりありますよ」
「カミラ、俺にも頼む」
「私もいただきます」
カミラさまがくすくす笑いながら私たちにアップルパイとお茶のおかわりを出してくれた。
おいしいものはおなかと心を幸せにしてくれるよなぁ。
満足のため息をついたら、レイモンドさまがカップをソーサーに戻し、物言いたげに私をじっと見た。
「レイモンドさま?」
「明日からまた留守にする」
「えっ。どれくらいですか?」
「七日くらい掛かると思う。西地方で行われる友人の祝い事に呼ばれているんだ」
「ベルナルドさまの結婚式に参列されるのですか?」
「あぁ。あいつもやっと腹をくくったらしい」
ベルナルドさま? 首を傾げていたら、レイモンドさまと頷き合っていたミリアムさまが私に微笑んだ。
「ベルナルドさまというのは、マックスさまと同期の方で、レイモンドさまとは剣の師匠が同じなのです」
「嘘みたいに強くてな。未だに一本が取れない」
拗ねたようにレイモンドさまは言う。
「まさか結婚式で剣の勝負を挑むおつもりですか?」
「祝い酒をしこたま飲ませたら勝機があるだろうと、師匠とマックスが言うのでな」
「あいつは酒に弱いですからね」
「情けない。王子なら正々堂々と勝負して、潔くぶちのめされてください」
「ミリアム、俺が負ける前提で言うな」
じゃれあう三人は楽しそうだ。
でも…そっか。しばらく会えないのか。ちょっとさみしいなぁ。
そうだ! 旅行用まくら、あとちょっとで完成するんだ。
「レイモンドさま、明日はいつごろ出立しますか?」
「昼前には」
「では…行く前にこちらにお寄り頂けますか? お渡ししたい物があるんです」
「も、もちろんだ」
忙しいと断られたら困るなぁと思っていたせいか、無意識に上目遣いになった。ちょっと子供っぽかったかもしれない。レイモンドさまが引いてる。
でも「絶対に来るからな!」と強く約束してくれたので、私は急いで旅行用まくらを仕上げにかかった。
夜市に行くとき、馬車に乗せてもらい、揺れを体感できたのはよかったと思う。
旅行用まくらは首回りのサポートだけじゃだめだ。あの揺れの中で居眠りすると、馬車の壁に頭をぶつける可能性がある。
なので、首をぐるりとガードするクッションにプラスし、頭部全体を保護できるようなデザインにしてみた。
そして最終的に出来上がったのは……やわらかいヘルメット? いや、ヘッドギアか?
「う~ん…。こんな微妙な物、渡していいのかな」
出来上がった物を前にして悩んでいたら、レイモンドさまがやってきた。
「おはよう、アイリーン。俺に渡したいものとはなんだ?」
「おはようございます。これなのですが…」
「新しいクッションか?」
「いえ、まくらです」
「まくら?」
ここまできたらしょうがない。使い方を説明したらレイモンドさまは首を傾げながらも装着してくれた。
「なるほど、このクッションで頭部への衝撃を包み込むんだな!」
イケメンがいっぱい綿のつまったふかふかクッションをかぶって笑みを浮かべている。
いや、これはあれだ、うん。小学校入学のとき必要になる防災頭巾だ。
「暖かい…。アイリーンに守られているようだな」
正直、色々申し訳ない。




