●●●彼が見た瞬間●●●
その日、主はマントのフードを目深にかぶり、朝市のにぎわいを楽しみながら進んでいた。
私は主の後ろから付いていく。
護衛兼侍従としては失格の距離。だが主はそれでいいという。
主は強く、そして悪意に敏い。
運も強いようで、トラブルを引き寄せることもない。
神と先祖のご加護と本人は言っている。
護衛対象、そして護衛としてその考え方は慢心だと周囲に言われつつ、主のしたいようにさせている。
「それで何かあって死ぬなら、それが運命だ」
主はあっさり言い切り、ついでに私たちも振り切り自由に行動する。おかげで気の弱い者や生真面目な者は心労でばたばた倒れ辞めていった。
「図太くないとお側に侍れない」
それが私たちの共通認識だ。
そんな主がふと足を止めた。
並べられた小さなカゴを見て首を傾げている。
背後から私ものぞくと、いやに小さいトマトたちが売られていた。
「あれはできそこないなのか?」
「熟れているようなので、単に小さいトマトではないでしょうか」
「珍しいものだ。一応買ってみよう」
主は店番をしている少女に話しかけようとして……固まった。
一瞬、以上。
かなりの時間、動かない主に肝が冷える。何かあったのか。
市民に扮していた他の護衛たちも主へ近寄ろうとし、そして彼らもまた固まった。
正確には主の顔を見て、静止した。
主は少女を見つめていた。
瞳は戸惑いを浮かべ、口は何かを語りたそうに少し開いたまま固定。顔立ちがいいので出来のいい彫像のようだ。
まさか不意の攻撃でも受けたのか。
慌てて少女を見るが、忙しそうにしている様子で主に気付いていない。
しばらくの後、やっと固形化を解いた主が少女に話しかける。
少女がその声に振り向くと栗色の髪が流れ、可愛らしい顔立ちが見えた。琥珀色の瞳は主を見つめ返すことなく、単なる客として金を受け取り、トマトを渡す。
身内が言うのもなんだが、主は女性受けする容姿だ。だがそれに惑わされず、むしろあっさりあしらう。非常に珍しい現象だ。
カゴを受け取っても動かない主をそっと押して、その場を去る。
「人が恋に落ちる瞬間を初めて見ましたよ」
ぼそりと呟くと、主が私を振り返った。
「今、なんて言った?」
「独り言です」
「こんな近くで聞こえないわけがないだろう」
「聞こえてるなら聞き返さずともよいのでは?」
「うるさい。定型句だ」
主は口元をきゅっと結んだ。
「……お前から見ても、そう思ったか?」
「誰が見てもそうでしょう」
「やはり、そうか」
主は苦笑すると、胸を押さえた。
「物語に書かれたような体験をするとは思わなかった」
「ドキドキしましたか?」
「うん。あの瞬間、体は動かなくなったのに脈は飛び跳ねるし、彼女と話していると心臓がよく動くし、顔は勝手にゆるむし」
「はい、まったく締まりのない顔で」
「うるさい。コントロールが難しいんだ」
自分の頬を手の甲でこする主。
「子供の頃以来ですね。あなたが表情を作り忘れるなんて」
「自分でも久しく記憶にない」
だが、悪くない。
主はそう言って笑った。