第2話 白狼、現る
「赤山先生だって驚いたでしょう、ましてや小学校一年生では」
「そうでない児童もいましたよ」
「九十人の新入生の内、三十四人の兄姉がこの小学校に在籍し、また七人の児童の兄姉がこの小学校を卒業しています」
「そんな以前からですか」
「私が赴任した時には既にいましたよ」
卒業生がいた頃となると、最低でも六年も前からこんな事が起きていると言うのか。いや青木の物言いからすると十年前、あるいはもっと前からか。
「くどいですけど本当に白い狼の唸り声なんですか」
「ええそうですよ、私も幾度も見ていますので」
「よく放っておきましたね、そんな危ない物を」
「私が赴任してから、一人も被害者とかはいませんでしたけど」
修二は非難がましく青木を問い詰めたが、青木はまったく馬耳東風の体である。
白狼が上げたとおぼしき恐ろしくよく通る叫び声は、児童たちを震え上がらせるには十分だった。二人の児童がおもらしをしてしまったのが、事前にトイレに行くのを怠った本人と親の責任と言えるだろうか。いや他の児童は漏らしていなかったじゃないか、やっぱり本人の問題じゃないかも言えるが、断言するに足る証拠はない。結局の所、どうとも断言しようがないのだ。
「白狼のせいですか、そうですか」
「まあそういう事です。早く教室に行かないと」
白狼だから仕方ない、とでも言いたいのだろうか。これ以上、入学式の件について言葉を交わしても無駄だと思った修二は一年三組の教室へと歩を運んだ。
「先程はごたごたしてしまいましたが、私がこの一年三組の担任の赤山修二です。皆さんと一緒に勉強しましょう」
「先生、さっきのあの声何?」
「先生にもわからない事があります」
一年三組の教室に入って挨拶するなり早速児童の一人から出たその質問に、修二は苦笑いしながらそう答えるしかなかった。
「先生って結構おじさんなんでしょ?先生どれだけやってるの?」
「三十年ですよ。それでもね、色々わかんない事があるんですよ」
「じゃあ先生、サウンドレンジャーの五人の中で一番強いの誰か知ってるー?」
「ほらこういう風にね、先生にもわからない事があるんですよ。あとそれと、いつもいつも自分に都合のいい事ばかり、起こる物ではありません。都合の悪い事を、乗り越えてこそ、人間は成長できる物です」
飾り立てた嘘偽りを申し述べても仕方がない、ありのままの自分をぶつける。巧詐は拙誠に如かずと言う韓非子の一文など小学生たちは知る由もないが、修二にとってはそれは絶対の真理であり、これまでの三十年間もずっと言って来た事でありそれだけに口は滑らかであった。一方で、その次の自分の都合の事ばかり起こる物ではないと言う言葉を吐き出す修二の口は重く、そして途切れ途切れだった。言い慣れなかったのもあったが、それ以上に青木に対する憤懣の感情を押さえ込んでいたのが大きかった。
白狼のせいだと言う事で済めばどんなに楽か。自分の五十五年間の人生とは比べ物にならないにせよ、児童たちだってこれまでの六年間の人生で思いのままにならない事は幾度となくあったはずだ。その思いのままにならない事を押し付けられるような存在などいなかった、親が守ってくれたにせよそんな便利な物がなくても生活できたはずだ、訳の分からない白狼なんぞに頼って生きて欲しくない。
「えー先生学校って楽しい所じゃないの」
「もちろんそうですが大変な事だってありますよ。幼稚園だってそうだったでしょう」
「あーオレリズム感ないからタンバリンとかすっげー苦手で嫌だったなー」
「ほら、そういう事です」
修二にひと月前まで幼稚園児だった六歳児を脅す趣味はない、されど言うべき事は言い、認識させるべき事はさせるべきだと言う信念はあった。
もっとも、修二としても入学式初日にそれ以上言うべき事はない。ある程度は放っておいても身に付くだろう、身に付けられるようになるだろう、と言うか身に付けられるようになってもらいたいのだ。
夜、帰宅した修二は信江に電話をした。
「あっお父さん、疲れたの?えっそう?いやー疲れてるでしょ、お父さんももうそんなに若くはないんだよ」
信江の心配に対し修二はそんな事はないよと定型句で否定してみたが、信江は納得していなかった。
「そう?確かに入学式なんてお父さんにとっちゃ毎年の事だもんね、子どもたちにとっては別だけど」
「あっ、ああそうだったな、まあ何とかその点は守れたと思いたいけど…………」
「いいんだがと申されますと」
この点は実に難しい。教師たちに取っては毎年恒例でも、児童たちに取っては生涯に一度っきりの一大行事である。そんな時に気を抜かれているのがわかってしまえば、児童や保護者たちの不興を買うのは必至である。理屈では分かっていたつもりであるが、修二は教師歴三十年であっても管理職としては新人であり、これまでは担当するクラスの方だけを見ていればよかったが今度はそうも行かない。修二はハッと気づかされたような思いになった旨通話口に向かって話したが、信江はしつこかった。
「ならいいんだけど…本当にそれだけ?」
その信江の追及に対し修二の頭に真っ先に浮かんだ言葉は
「白岩小がそんなに怖いのか」
であり、実際に口に出した言葉は
「本当にそれだけだよ」
であった。
いや実はと今日起こった事を説明すべきだったかもしれないし、心配してくれてありがとうと言うべきだったのかもしれない。確かに信江や悟が事前に危惧していた通り白岩小の指導者は気力と言う面において不足しているなと言うのは感じられたが、どうにも過剰反応な気がしてならない。確かに今日体育館に本物の白狼の声が響き渡ったのであるのならば異常事態であり過剰反応とは呼び難いのだが、実際白狼なのかどうかわからない。気力が不足しているなと言いたい教師なら三十年の教師生活で嫌になるぐらい見て来たし、実際青木に対してもその時少し腹は立った物の今の所それ以上どうたらこうたら言う事はない。
いつも通り、これまで通りにやるだけだ。今日のようなイレギュラーがそうそう起きる訳でもない。修二はそう安心しながら、寝酒を一杯あおった。
それから一週間、授業は滞りなく進んだ。三十年の間に子どもの中身が変わるのは当然の話だが、だからと言って基本の軸が変わる物ではない。修二にとって一年生の担当は五年ぶりであるが七回目でもある。大体これまで通りのやり方でうまく行くはずだ。
変わった事があるとすれば給食の事だけだ。柿沼と言う男子児童に小麦粉アレルギーがあり、その為かコッペパンが米粉パンになっていた。他の献立は牛乳、野菜スープ、マーガリン、そしてリンゴ一切れ。最近給食が栄養価だけしか見ておらずその結果メニューとしておかしな物になっていると言う指摘をよく聞くが、少なくとも今日はそうではなかった。
「さて皆さん、給食を作ってくれたおばさんたち、その元となった食材を作ってくれた農家の皆さんに感謝しながらいただきましょう。では、いただきます!」
年に一度しか言わないだろう大仰な定型句から始まった、一年生にとって初めての給食の時間。楽しそうに給食を頬張る子供もいれば、このパン何なのいつも家で食べてるのと違うと聞いてくる子供もいる。そして、うまく食べられない子もいた。
「自分のペースで食べていいからね」
修二が教師になった頃にはどこにもかしこにもあった、汎用性の高い先割れスプーンはそこになかった。しかしそれにしたってリンゴを刺すだけで終わるフォークと野菜スープをすくって飲むだけのスプーンしかないのに遅れるのは明らかに別の要因があるからである。パンに付けるマーガリンの袋がうまく切れなくて戸惑っていた子もいた、だがそれ以上に修二の、と言うよりクラス中の耳目を引いたのは別の一人の児童だった。
「うえっ」
その男子児童はスープを飲み干そうとするとオレンジ色の板状の物を吐き出し、その吐き出した物をスープに戻して飲もうとしまた吐き出しを繰り返していた。
「きたねー音立てるなよまずくなるだろ」
「人参が食べられないなんておこちゃまね」
「好き嫌いは誰にでもありますよ」
その顔には涙が浮かんでいた、食わず嫌いではなく本当に嫌いである事を雄弁に物語る表情であり、修二は優しく呼びかけたが周りの児童の言葉は冷たい。
「農家の皆さんをバカにしているじゃない、こういうのって」
「農家の人たちだってね、嫌いな物はあるだろうし」
「ああ可哀想、人参を作ってくれた農家の人可哀想」
そして男児の言葉に比べ女児の言葉は随分と厳しい。修二の必死のフォローも耳に入っていないかのように芝居がかったセリフを嫌味ったらしく唱え続ける、ただただその児童をあざ笑うがためだけに。
そんな気まずい空間に、突如唸り声が響き渡った。何だこれはと教室が静まり返る中、窓から何かの生き物が飛び込んで来た。
その生き物は四本足で歩き、全身真っ白な毛並みに覆われていた。体長は一メートル半ぐらいか。口からは鋭い牙が覗き、そしてその口から唸り声が出ていた。
「もしかしてだけど、もしかしてだけどこれって白狼じゃないの!?」
「ああ姉ちゃんが言ってた通りの白狼だ!」
犬ではない、白狼だ。入学式の日に唸り声を上げた白狼だ。そう言えば唸り声の声色もあの時と同じだった。
(白狼が…!)
修二は信じられなかった。これほどまでに真っ白な犬、いや狼がいると言うのか。いや今はそんな事を言っている場合ではない。修二は廊下に飛び出しながら、大声で狼が出たと叫びつつ、階段の近くに保管されていた刺又を握り締めた。児童たちに危害を加えさせるわけにはいかない、その一念が五十五歳の修二を突き動かしていた。
「そこかっ!」
教室に戻って来た修二は、男子児童の机の皿に顔を擦り付け人参を喰らっている白狼に向けて刺又を押し込みにかかった。だが白狼は素早く飛び退き、先程まで彼を芝居がかった口上でバカにしていた一人の女子児童の机の上の皿とその中身を全部転がして窓から飛び去って行った。
「あーあーあー、私のスープが……」
「バーカ自業自得ってこういう事言うんだろ、そうだよな?」
「……やっぱり白狼ってすっげえよな」
「ああそうだよなー白狼ってマジかっけーじゃん!」
「みなさん大丈夫ですか!」
「いや特に何も」
「人参が食べられたぐらいです。後は何も」
児童たちはと言うと修二の焦燥など知ったことかと言わんばかりにはしゃいでいた。修二は空振りした刺又を右手に持ちながら、愕然とした表情で窓の外を見つめていた。
「先生何持ってるの」
「これは刺又と言いましてですね、危ない物が教室や学校に入って来た時に」
「へぇ、先生ちょっと見して」
あんな真っ白な狼が突然現れたと言うのに、児童たちの反応は薄い。むしろ刺又の方に耳目が集まっていたぐらいだ。修二の後ろにくっついていたよそのクラスの児童も平然としており、修二と同じかそれ以上に動揺しているのは机の上の給食をひっくり返されて泣いている女子児童一人だった。
(知識がない事は悪い事ではない、私たちのように思考が硬直することなく柔軟な思考ができるからな、にしても…………)
なぜ児童たちはあんな白い狼を見て動揺しなかったのか。おそらくは日本において野生の狼が絶滅していると言う知識もないし、あんな真っ白な狼が実在しないはずであろう事も知らない。ましてや狼が野菜に手を出す事などないのも知らないだろう。そういう狼に対する知識があれば児童たちは身構え、動揺しただろう。しかし知識があるなし以前に、何かが突然教室の外から飛び込んで来れば驚くのが普通の反応である。にも関わらず児童たちが上げたのは、悲鳴と言うより歓声だった。
(この状況で何を言うべきか…………)
折角の初めての給食がこんな事になってしまって残念とか言うべきだっただろうか、しかし一人を除いて児童たちには全く落胆している様子がない。自分が小学生だった時から考えるとのべ三十五年ほど給食を食べている修二であるが、給食の最中に白狼が乱入して来るなど当然ながら初めての経験である。下手にと言うと大変語弊があるが三十年の教師の経験があるだけに、却って言葉に困ってしまった。三十人もの人間がいる中で自分だけが慌てふためいている、その焦燥をどう伝えればいいのか、いやあるいは伝えない方がいいのか。
「とにかく、みなさん、ちゃんと食べましょう…………先生は道具を戻して来ますので……いいですか、教室から出ないでくださいね。あとできちんとお掃除しましょうね」
結局、そんなセリフを言うのがやっとだった。児童たちに取って記念すべき初めての給食がこんな事になってしまって……と懊悩しているのが自分一人であり、児童たちは一人を除いて誰も慌てていないのだ。
(私も年かもな……ずいぶんと頭が固くなってしまったのか……)
修二は必死にそう思い込もうとしていた。人生なんてうまく行かない事、都合通りに行かない事の方がずっと多いんだからいい経験だろう、これもまたいい人生訓になっただろう。
「先生どうしたの?」
だがそんな余分な事を考えている物だから集中力は失われ、スプーンを持つ手付きは怪しくなってしまった。結果子どもたちに心配されてしまっている。
「いや、特に何も……」
そう言ってごまかしたかったが、児童たちの追及は厳しかった。
「もしかして先生、あの白狼が怖いの?」
「……はい、そうです、驚きました。いや怖いのとは違いますよ」
「ずいぶんおたおたしてたっぽいけど?」
「いいや、皆さんに何かあってはと考えた結果、その……」
結局、素直に白狼に驚いたと認めるしかなかった。何とか必死に児童たちのためを強調してはみたが、いずれにせよ威厳が損なわれた事は確実である。