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よろしくお願いします。
華澄が家に帰りついた時、玄関には父親がいた。出かけようとしていたのか、手にはコートとスタンガンが握られていた。物騒である。
「お父さん、どうし」
「ああ、華澄! 無事だったか!!」
呆れた彼女の声は遮られた。震えながら無事を確認する、切迫感半端ない父の様子に反論すらできないが、どうやらかなり心配されていたようだ。
「お前まで真澄のようになったら……!」
「お父さん……」
姉の名前はまだ平静では聞けないな、とぼんやり思った自分はまだどこか感覚が麻痺しているようだ。
父が落ち着くのを待って聞いた話は、ゾッとするものだった。
非通知で家に来た電話。声は加工されたもので聞き取りにくく、さらに狂ったような嗤い声に嫌悪感を抱いたそうだ。
『お前のダイジなもうひとりのムスメも俺らのオモチャにしてやるよぉ』
『前のみたいにコワれないようにアソンでやるからさぁ』
『これからムカエに行くからぁ。キレイにしてマってろよぉ』
冗談にしては悪質なそれに、父は怒りよりなにより血の気が引いたらしい。そして、あのスタンガンだった。気持ちはわかるが落ち着け。
姉の一件で、こちらにはなんの非もないのに噂の渦中。言いたくも聞きたくもない噂は、尾びれ背びれがついて大海原を悠々と遊泳中だ。仕方なしに一時避難としての引っ越し準備中だった矢先の事件の前触れ。
やり場のない怒りと悲しみは、ふたりだけになってしまった家に暗く沈んだ。母はいない。華澄が産まれてすぐに亡くなった。
五歳上の姉が、華澄の母代わりだった。姉も子供だったのに、優しく育ててくれた。怒られた記憶すらない。そんな大好きな姉に訪れた悲劇はーー。
「こんなことなら、俺が役所に手続きに行けばよかった」
肩を落として泣く父を見て、今頃になって怒りが溢れ出す。大好きだった姉を貶め、大切な父を悲しませた、あの男達。
華澄の麻痺していた感覚が動き出す。
あの日。
姉は婚約者と出かけた先で拉致された。ふたりがかりで暴行を受けた婚約者は意識を失い、気がついた時には姉はもういなかった。家へ来てそれだけ告げるとまた気絶。
病院に運び込まれたあとは、婚約者の母により接触を断たれた。ヒステリックに婚約破棄を叫ばれたが、姉は行方不明のままだし、それどころではなかった。
姉が見つかったのは一週間後だった。川の土手に投げ出されたように倒れていた。身体は傷だらけで、明らかな暴行の痕。美しい姉からは表情が消えていた。
自分の母親から逃げてきた婚約者と共に、闘うことを決意し警察に届けを出して弁護士を探そうとしたその時に、再びの拉致。半狂乱で姉を取り戻そうとした婚約者を、狂った母親が連れ去った。
二週間、姉は見つからなかった。
華澄は泣きながら見ていた。
川底に揺らぐ長い黒髪を。
監禁された自宅から脱出し、姉を探して家に向かっていた婚約者が、家の近くの川で姉を抱きしめて泣き叫ぶのを。
美しいまま、もう二度と目を開けることのない姉を。
濡れるのを気にせずに、ふたりの元へ泣きながら近づく父を。
華澄もそこに行きたいのに、足が震えて動けなかった。夢だと思いたかった。涙で景色がぼやける。拭っても拭っても前が見えない中、ぼんやりと現実だと悟った、あの時。
すべてが凍って、壊れた。
思い出した記憶から、怒りだけが湧き出す。悲しみも寂しさも今は邪魔だった。
「お父さん、私は大丈夫だから。あとは引っ越すだけでしょ? 今日は早く休もう」
「……華澄?」
「大丈夫。もう、好きにはさせない」
覚悟と、強い願いで開けたドアは、なぜか青空の見える広い空間につながった。驚きもしない華澄に、当たり前のように善も応えた。
「心は決まりましたか?」
後悔はしないと、華澄は一歩を踏み出したーー。