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ああ、どうして。
どうしてこんなことになってしまったの。
冷たい水の中、彼女は思う。
あまりの冷たさに身体は動かず、流され沈んでいくのに、もうどうすることもできない。
薄れていく意識の中、彼女は原因を思い出した。
ほんの偶然だった。
恋人にプロポーズされ、式場を下見した帰り道。
端によっていたにも関わらず、わざと肩をぶつけられた。
若い3人組の男達。内二人がニヤニヤしながら言いがかりをつけてきて、庇おうとした婚約者を殴り倒した。
悲鳴を上げて助けを求めても、誰もが顔を背け足早に遠ざかっていく。
気絶するほど暴行を受けた婚約者をおきざりにして、彼女は男達に連れ去られた。
どこかはわからない、けれど高級そうなマンションの一室。
キングサイズはあるだろうベッドしか置かれていない部屋で、彼女は3人に代わる代わる犯された。
服を裂かれ、押さえつけられ、泣いても叫んでも止まらない凌辱は一晩中続き。気を失っても終わらない悪夢に、男達の笑い声が響く。
開放されたのは三日後のことだった。
入院し治療を受けても、心の傷は癒えることはなく。
彼女は支えてくれる婚約者と共に、被害届を出し闘う決意をした。
男達は金と地位を持った家の息子だったらしく、親の権力でねじ伏せようとしてきた。
それにも屈しない彼女に、悲劇は続く。
婚約者の母親からの婚約破棄。その日から婚約者に連絡がとれなくなり。
会社は解雇。あらぬ噂に信用さえもなくなり。
唯一の味方は父と妹。二人にも様々な悪意ある嫌がらせをされたが、妹は負けなかった。
妹に背を押され、気持ちを持ち直した矢先。
あの男達が現れた。
連れていかれたのは、前と同じ場所だった。
逃げられないように手足はベッドに拘束され、凌辱の日々が始まった。
許さない!!
叫ぶ彼女に無理矢理白い錠剤を飲ませた彼らに罪悪感は全くない。
お前が悪いのだと。
大人しく泣き寝入りしておけばいいのにと。
意識が朦朧としている彼女を犯しながら、嗤った。
自分の快楽のための道具として、彼女の意思など必要ないからと、薬で精神さえも侵しながら一時の悦楽に酔うその様は、本当に人なのか。
次に開放されたのは2週間を過ぎた頃だった。
母親に軟禁されて連絡手段を絶たれた婚約者が、なんとか抜け出し彼女の家に向かっていたその橋の、川の中。
ボロボロの服が流れに揺れる。
綺麗な黒髪は水に濡れて広がり。
なにかを言いかけた唇は色を無くし。
閉じられた瞳はもう開くことはなく。
力なくその身体は川底に沈んでいた。
おそらく、土手に投げ捨てられた身体は勢いで川に落ち、意識があやふやだったために溺れたのだろう。
警察の見解は事故死。
あっけなく、彼女の人生は終わった。
婚約者の慟哭は、もう彼女には届かない。
ビルから出たはずだった。
自動ドアをくぐった先には大通りの喧騒が広がっていた、はずなのだが。
なぜか華澄はだだっ広いフロアに立っていた。
一面の窓ガラスの向こうは、雲一つない青空。
フロアの中心には皮張りのソファーセット。
「え……ここどこ?」
あたりを見渡しても、あるのは入ってきたと思われる扉のみ。
夢でも見ているのだろうか。
「ようこそ。星蒼屋へ」
後ろからかけられた声は高くもなく低くもない、中性的なもの。
振り向いた先には声の通りの中性的な少年、だろうか。
「この扉を開けた者には願いを告げる権利がある。さあ、願いをどうぞ?」
長い銀髪は一つに束ね、黒のロングジャケットに包んだ身体は細い。
「好きな男を恋人にしたい? 誰かから奪いたい? ……それとも、復讐?」
感情のこもらない瞳は、それだけが緋と銀に輝いている。オッドアイだろうか。
「復、讐……?」
本人だけが気づかない呟きを拾った銀髪の人は、少し目を見張った。
「……なるほど。あなたの願いは復讐ですか。話を聞きましょう」
「なっ、違っ!」
華澄は一歩後ろに下がった。
心を占めるのは困惑と恐怖。
いきなり見ず知らずの場所と人に困惑し、心の奥底に秘めた願いを知られた恐怖。
「わ、私帰りますっ」
これ以上彼の前にいられなかった。
「そう。では、またね」
なにかを悟ったかのような言葉を背に受けて、唯一の扉から出る。
「……!?」
とたんに耳に入る喧騒に我に返る。
そこはさっきの場所に迷いこむ前にいた所だった。
「なんだったの? あれ……」
答える声はない。今は。
「彼女をここに呼んだのはお前か、死神」
青空をバックに髪をかきあげた彼は、なにもない空中に声を投げた。
「いやだなぁ。俺が呼ばなくてもいずれ彼女はここに来てたよ?」
空間が歪んだ一瞬の後、そこには嫌味なくらい端整な顔立ちの男が立っていた。
全身黒の出で立ちに果たしてセンスは関係あるのか、死神と呼ばれた彼は質の良いシャツにブラックジーンズ、グレーのロングコートを着こなしてソファーに座る。
「てか、すぐにくることになってたよ。じゃないと彼女も同じ目にあってたかもしれないしね」
「どういうことだ」
思わせ振りなセリフに訝しげに問うが、死神は答えずに笑みを深めた。
「彼女は西須華澄。調べればすぐにわかるよ」
「おい、し」
「じゃあね、善」
現れた時と同じように視界が歪む瞬間に消えた男は、くすくすと笑い声だけを響かせた。
空中を睨んだまま、彼ーー善は口を開いた。
「凛」
「なーに?」
呼ぶ声に応える声は呑気な少女のもの。
ソファーしかなかったフロアに、四方をパソコンで埋め尽くされた机が現れた。いつの間に、と思う隙すらない。
「西須華澄とその家族」
「もう調べてるよー」
「警察のホストコンピューターに侵入するなら真昼さんに連絡しとけ」
「許可するわ。ついでに警察の資料もあげる」
カタカタとキーボードを叩く音に、別の女性の声が重なった。
二人しかいない空間にまたも突然人が現れる。
腰まである髪を無造作に背に流した彼女は、高校の制服を着たまま、警察の重要書類を善と呼ばれた彼に手渡す。
躊躇なく、である。機密保持はどうした。
「真昼さん」
「うちじゃ、もう手が出せないの。まったくもってこんちくしょうがあいつらくたばりやがれ」
「ああ、そういうことですか」
この流れは初めてではない。ここに来る人々の願いは様々であり、法に触れないものもあれば、がっつりアウトなものもある。
刑事である真昼は、介入できるラインが存在する。それを飛び越えてきたのが善である。
「それにこれは、私からの願いでもあるの」
真摯な目は、善を真っ直ぐに見た。思いの強さは、願いに比例する。静かに頷いた善に、真昼は悲し気に微笑むと部屋から消えた。
「凛」
「真昼さんからのコード受け取ったよー。資料はそこねー」
あとは暫し待て! と少女の声は答えて沈黙した。ちなみに、パソコンに邪魔されて姿はまったく見えない。
真昼からのと凛が用意した資料を読み込んで、善はため息を吐いた。
「愚か者、世に蔓延る」
まったくだ。