第7話:条件付の結婚
第7話 条件付の結婚
ある日、俺の姉は、その彼氏を両親に紹介するべく我が家に連れて来たわけだが、その彼氏は彼氏ではなかった。
なんとも紛らわしい言い方だが、そのような言い方をするしかない。
要するに、その彼氏は単なる彼氏ではなくバイセクシャル男だったのだ。
そのバイセクシャル男の立ち居振る舞いは、オカマバーで見られるような所謂「オカマ」のものだった。
つまり、そのバイセクシャル男は、女の出来損ないのような言葉つきと身のこなしを見せる俺の姉の婚約者なのであった。
そのバイセクシャル男と俺の両親の顔合わせは、門真団地という門真市にある団地の3DKの居間で行われた。
俺は、その場には立ち会わなかった。
だから、後で聞いた話なのだが、俺の親父は、終始無言だったそうだ。
その顔合わせの後、親父は、そのバイセクシャル男との結婚に当然反対するのだったが、その反対は「勝手にしろ」と言う程度の何とも消極的なものだった。
それにはそれなりの理由があって、この当時の親父は、その体調をすっかりと崩していた。
長年の深酒が祟ったのか腎不全となり、銀行を休職して病院で人工透析を受けるようになっていた。
だから、気力も体力もなく「勝手にしろ」と言うのがやっとだった。
そこで、そのバイセクシャル男の話に戻るのだが、俺としては別にバイセクシャルでも構わなかった。知的障害者を兄に持つ俺に人に対する差別意識など無かったからだ。
それでも俺は、そのバイセクシャル野郎との結婚には反対だった。
もちろん、そこには確固とした理由があった。
俺がその結婚に反対だったのは、そのバイセクシャル野郎の性格が最悪だったからだ。
俺は、そのバイセクシャル男が我が家からの去り際に俺に言った言葉を今でもはっきりと憶えている。
冗談で言った言葉なのだが、その内容はあまりにも非常識で下劣で辛辣だった。
そのバイセクシャル野郎は、初対面だというのに、俺にこう言ったのだ。
「アンタ、ええなあ、お姉ちゃんとは女と男の兄弟やもんな。お姉ちゃんとやり放題やったやろ、良かったなあ。けど、もうあかんで、これからは、このウチがアンタのお姉ちゃんとするからな
・・・ あっはっは、なんやねんアンタ、下を向いて、今のは冗談やんか。ところで、これはマジな話やけどな、アンタのキ●ガイのお兄ちゃんの面倒な、爺さんになったらアンタが全部見るんやで。
あ、アンタのお父ちゃんとお母ちゃんの老後の面倒も頼んどくで。ウチな、汚らしい老人の世話なんかイヤやねん、性に合わへんねん。
このウチはな、華やかなことが好きやねん。その代わりな、アンタのお姉ちゃんのことは任しとき。ウチの実家はな、アンタのところと違って資産家やねん。
駅前に3階建ての持ちビルがあるのやけどな、今はウチの父さんのものやけど、いずれは継ぐからウチのもんになるんや。ほやからな、アンタのお姉ちゃんのことはウチにお任せというわけや。
そういうことやから、アンタのお父ちゃんとお母ちゃんとお兄ちゃんの老後はアンタに任せたで、頼んだで。その代わりな、アンタの実家の財産はみんなアンタにあげるからな。
ちゃんとアンタのお姉ちゃんが相続しないようにするからな、心配せんとき。ま、何かが残ればの話やけどな、ひーひっひっひ
・・・ あ、アンタ、またアサッテの方向を見とるな、ちゃうやん、だからな、今のも冗談やんか ・・・ って実は本気やけどな、ひーひっひっひ」
俺は、いかにもアホそうで下劣なバイセクシャル野郎の言葉を聞く間、何の返事もしなかった。
ただただ、おぞましかった。
そのバイセクシャル野郎は、バックダンサーとして働く姉の同僚だったのだが、姉がそのような男と結婚したがる理由が俺には全く理解できず、その後は、無視を決め込むのみだった。
無視はしたものの、その結婚は、兄と我が家にとって屈辱的なものだった。
後で知ったことだが、そのバイセクシャル野郎とその実家は、やはり、「あのこと」を結婚の前提条件として出してきたのだった。
「あのこと」とは、もちろん、俺の兄貴のことだ。
つまり、俺の兄貴のことを指して「この世にいないことにしてくれたら結婚には反対しない」と言ったのだ。俺の姉は、そのことを結婚の前提条件として先方に突き付けられたのだった。
そして、俺の姉は、どういうわけだか、あの下品で下劣なバイセクシャル野郎との結婚のために、その条件を呑んだのだった。
それを知った俺は、その後、現在に及ぶまで、姉のことを軽蔑することになった。
その顔合わせの半年後、姉とバイセクシャル男は結婚した。
意外なことに、俺の親父は結婚に反対しておきながら結婚式に出席した。
この頃の親父は、当時は技術がまだ低かった人工透析によって、その心身が衰弱しきっていたのだ。
故に、面倒臭いからと、どのようなことでも受け入れるようになっていた。
ところで、俺に良くしてくれたとは間違っても言えない親父だったが、この頃の親父は、図々しくも、俺の世話になっていた。
それと言うのも、親父は、人工透析を受ける病院への送り迎えを俺に頼っていたのだった。
つまり、俺は、自家用車で親父の送り迎えをしていたのだ。
親父は、それまでの態度が嘘のように下手に出て、渋る俺にその送迎を依頼したのだった。
自分の衰えを強く感じて、車の運転を乞い願う親父の依頼を俺はともかくも引き受けた。
もちろん、俺は、その依頼を渋々引き受けたのだった。
ただし、親父の依頼を引き受けたのは、断るのが忍びなかったからではない。
俺は、父子の間にある浮世の義理を果たすつもりだったに過ぎない。
親父のことがいくら不満でも、その親父を非難するためには、まず父子の義理を果たさなければならない。
その浮世の義理を果たして初めて、俺は、親父のことを非難する立場に立てる。
俺はそのように判断したのだった。
また、それは、俺という人間の流儀でもあった。
さて、そうと決まると、親父は、俺が運転する車を用意した。
やはり、親父は、自分が遊びに注ぎ込む金なら惜しまないのに、俺が運転する車にかける金は惜しんだ。
結果として、親父は、8年落ちのサニーエクセレントという一番安い中古車を俺に買い与えた。
そのせいで、俺は、後日、トンネルの中で立ち往生し、ハザードランプも点灯出来ない危険な状態で冷や汗をかきながら車を友人とトンネルの出口まで押すといったトラブルに何度も見舞われることになるのだった。
それに、親父の送り迎えに費やした時間も半端なものではなかった。
親父の送り迎えをするために、俺は、大学の一回生の後期から大学を卒業するまで、火曜日と木曜日の一講義目と四講義目、それと、土曜日の一講義目に出席することが出来なかった。
だから、俺は、バイトで得た報酬を費やして、ロイヤルホストのランチを女子学生に奢り、ノートを借りて単位を何とか取得した。
その後、俺は、卒業して、大手の機械メーカーに就職するのだが、では、親父は俺の卒業後の送り迎えをどうしたのか?
その答えだが、親父は、俺が就職した一か月後に死去した。
俺にとって何かと誠に不都合な親父だったが、その死のタイミングだけは不都合ではなかった。
もちろん、俺が悲しまなかったことは言うまでもない。
さて、ここでバイセクシャルの義理兄の話に戻ることにするが、彼は、姉と結婚してすぐに、その変態ぶりを露わにした。
いくつかのエピソードがあるのだが、まずは、義理兄の父親の葬儀だ。
俺も、それこそ浮世の義理で、一応は参列したのだが、俺は、火葬場で義理兄の「変態その1」を目撃することになった。
俺は、その葬儀の際に火葬場まで付き合ったのだが、義理兄はその父親の遺骨を箸で拾い骨壺に入れると思いきや、なんと、その遺骨をそのまま口のところに持って行き、ポリポリと食べてしまったのだ。
流石にこれには、義理兄の実の姉も引きに引いて、
「あんた、なんてことをするのや!」
と、叫んだのだが、
これに対し、義理兄は、ニコリと微笑みながらその姉に言った。
「だから、これこそが愛情やん、姉さんも食べ」
義理兄の実の姉がその遺骨を食べなかったことは言うまでもないが、俺は、その光景を目撃すると、そのことに驚き終わってからすぐに、その場を立ち去ることにした。
俺が立ち去ろうとしたその刹那、俺と俺の姉の視線が合った。
もちろん、俺の姉は、この上なく気まずい表情を浮かべたのだが、俺は、そんな姉を冷たく無視し、一切躊躇せずにその場を立ち去った。
それからの40年ほど、俺が義理兄と顔を合わせることはなかった。
それは、俺が姉たちを見限った瞬間だった。
だから、俺と義理兄の関係は、この時をもって、その一切が断たれたわけだが、義理兄の変態ぶりは、その後も、俺の御袋から俺に伝えられたのだった。
義理兄の狂気じみた行いは、その後も収まらなかった。
義理兄は、それから数回、警察沙汰に及んだ。
義理兄は、男に横恋慕して、挙句に刃傷沙汰に及んだのだった。
そんな不始末が数回繰り返されたわけだ。
しかし、義理兄のバックには、大阪の衛星都市の市役所に勤務し、重職を担う実の姉がいた。
その義理兄の実の姉は、どういうわけか、地元の闇社会にも警察にも顔が利き、義理兄が不始末を仕出かす度に、その不始末を揉み消したのだった。
また、義理兄は、バイセクシャルだけに、男漁りにも熱心だった。
年に2、3回はタイのプーケット島に行き、現地の若い男たちを金で買い漁ったのだった。
義理兄とその実の姉は、俺の兄貴のことを指して「この世にいないことにしてくれ」と言い放った張本人たちだった。
しかし、その張本人たちこそがまさに「この世にいないことにしたくなる」おぞましい連中だったと言うわけだ。
そんなことで、義理兄がその実の父親の遺骨を食べた葬儀以来、俺は、自分の姉に自分の方からは一切連絡を取らなかった。
それから、しばらくの間、少なくとも俺の周囲では特筆すべき出来事が生じなかった。
その間、俺は、海外営業マンとして世界の都市から都市へと飛び回る日々を送りながら、その傍らでは、結婚し、浮気され、赤の他人の子供を自分の子供として産まれ、離婚し、体調を酷く崩し、脱サラし、フリーライターに転身すると言った、本来なら特筆するべき人生を送った。
しかし、「ど変態」の義理兄のエピソードと比べれば、俺のことなど語るに値しないだろう。
俺の姉があのような変態男とどうして結婚したのか初手から理解できなかったのだが、61歳となった今でも理解できないままでいる。
その間の我が兄貴、清弘だが、入院先の病院の「仏の院長」のお蔭で、しばらくは平穏な入院生活を送っていた。
しかし、その「仏の院長」が104歳という超高齢でこの世を去り、その息子が院長兼理事長として跡を継ぐと、兄貴は、様々な意味で、波乱の渦の中に巻き込まれていくのだった。
しかし、それを語る前に、俺には振り返っておくことがある。
それは、俺の親父とその兄弟たちのことだ。
人情味をあまりにも欠いた、あの冷血漢の人間どものことだ。
=続く=