第6話:早稲(わせ)の少年
第6話 早稲の少年
隣のクラスの三人組からの投石による攻撃で俺は団地の一階のベランダの下に追い詰められたのだが、その場は、何個かの石を身体に受けながらも、何とか逃げ切った。
それにしても、俺一人に対して三人で石を投げつけるとは何とも卑怯な話だ。
しかし、それには理由があった。
それは、俺が早稲だったからだ。
つまり、俺の成長が並外れて早かったからだ。
還暦を過ぎた今の俺は、その身長が172センチ、体重が78キロの「ややメタボ」の体格なのだが、小学校5年生時の俺の身長は既に168センチもあり、体重だって70キロもあった。
俺が小学5年生だったのは今から50年も前のことだ。
当時の子供は今の子供よりもかなり小さく、平均的な小学5年生の男子なら、身長は150センチもなく、体重も50キロに届かなかったはずだ。
つまり、俺と他の男子児童たちとでは、そこに、身長で20センチ、体重でも20キロという大きな体格差があった。
だから、俺が他の児童と取っ組み合いになると、どうしても俺が勝ってしまうのだった。
それ故に、同学年の他の男子児童が俺に勝とうと思えば、徒党を組んで石でも投げるしかなかったわけだ。
さて、その場を何とかしのいだ俺だったが、その隣のクラスの三人組とは、後日、学校で取っ組み合いの喧嘩をすることになった。
そのきっかけは、やはり、俺の兄貴だった。
彼らに学校の廊下でまた「おーい、キ●ガイの弟」と挑発されたのだった。
隣のクラスの彼らは、三人組なら勝てると思っていたかもしれないが、結果は俺の圧勝だった。
それは何も俺が喧嘩に強いからではない。
体格差が圧倒的だったので、嫌でも勝ってしまうしかなかったのだ。
そして、喧嘩が教師にばれた場合、たいていは勝った方が悪者にされてしまう。
しかも、悪いことに、俺はクラスの担任と合わなかった。
俺のクラスの担任は谷川という名前の女性教諭だった。
そして、その谷川教諭は、喧嘩に勝った俺のことを当然のごとく悪者と判断して、俺にビンタを食らわせた挙句、俺を廊下に立たせた。
それは、5年生の2学期の出来事だったのだが、谷川教諭は、その学期の俺の通信簿の親への連絡欄に「粗暴性を頻繁に見せる」と書きやがった。
もちろん、事情を誰よりも知る俺の御袋がそれを問題にすることはなかった。
そして、俺の親父は、酔っ払って帰宅するだけで、俺の通信簿など、そもそも見もしなかった。
ところで、俺は、学期中のテストでは良い点数を取っていた。
俺のテストの点数は通信簿の五段階評価で5を与えられるべきものだった。
それなのに、俺とそりが合わない谷川教諭は最高で4の評点しかくれなかった。
結局、俺のクラスは小学校4年生から卒業まで持ち上がりで、クラスの担任は最後まで谷川教諭だった。
だから、俺は、とうとう卒業まで通信簿の評点で「5」を与えられることはなかった。
「4」が最高だった。
谷川教諭は、俺が誰かと喧嘩するたびに、体格差故にどうしても喧嘩に勝ってしまう俺の方を悪者とした。
喧嘩の原因は、いつも、「キ●ガイの弟」という相手の罵りだったのだが、俺の言い分が聞き入れられたことは、結局、卒業まで一度もなかった。
だから、俺は、卒業までの小学生ライフを孤独に過ごすはずだったのだが、幸い人生はそこまでは残酷ではなかった。
俺にも3人の友人ができたのだ。
その一人は奥野という男子の同級生だった。
その奥野というクラスメートは、身長こそ俺よりも10センチほど低かったのだが、スポーツ万能であり、小学生だというのに筋骨隆々だった。
胸筋なんか、胸に段差が形成されるほどの見事さだった。
そんな奥野と俺は、俺のクダラナイ悪ふざけから、取っ組み合いとなった。
俺にからかわれた奥野が俺に挑みかかってきたのだった。
さて、その喧嘩の顛末なのだが、俺は奥野に秒殺されてしまった。
普段の奥野は、その運動能力が呆れるほど高いのに、自分から喧嘩をふっかけることなど決してない生徒だった。
しかし、その日は、その奥野が朝から父親に叱られていたため、気が立っていた。
それ故に、その日の取っ組み合いとなったのだった。
けれども、奥野は、実直な男だった。
後日、我が家に来てくれて「つまらないことで喧嘩を売って悪かったな」と謝ってくれたのだった。
俺の御袋は、そんな奥野に、昼食としてインスタント焼きそばを出してくれた。
日清の焼きそばだった。
それが何ともチンケで粗末な焼きそばで、合挽きの安いミンチ肉と玉葱を使ったものだった。
普通なら、初めて来たよその子にインスタント麺など出さない。
しかし、我が家は、その当時も、よそ行きのものなど出せない経済状態だったのだ。
だから、俺の御袋としては、それでも精一杯のもてなしだったのだ。
しかし、俺は、そのことを承知していても、俺と奥野の目の前に出された粗末な日清焼そばを見て気まずく思った。
それなのに奥野は、その焼きそばを「これ旨いなあ、旨いで!」と言って、あっと言う間に完食してくれたのだった。
その様を見て大いに好感を持った俺は、そんな奥野と友達になったのだった。
そのおよそ半世紀後、俺は、ブログを始めるのだが、そのコンテンツとして主に自作小説をアップしている。
俺のブログには三十数本の自作小説をアップしてきたのだが、その中に奥野を主人公とした小説がある。それは「アンチ社会」という小説だ。
その中で俺は、奥野のことを、後にヤクザになってしまう正義派の男として描いた。
さて、それはともかく、あと二人の友達だが、それは成績の良い生徒たちだった。
その二人の通信簿は「5」だらけだった。
そのように賢い二人だったのだが、俺は、その二人と趣味の点で意気投合した。
その趣味とは漫画を描くことだった。
武谷と麻野という名前の生徒だったのだが、俺と武谷と麻野は、漫画の同人誌を月刊誌として発行し、第40号まで、つまり、中学校2年生の2学期まで、その同人誌の発行を続けた。
その同人誌だが、クラスメートたちに回し読みさせたのだった。俺たちの同人誌はクラスメートの間で結構好評だった。
それぞれ別のきっかけで親しくなった俺とこれらの友人たちだが、彼らは、俺の事情をよく理解してくれた。
だから、俺は、「賢く物分かりの良い人間とは良いものだ」と感謝したものだった。
これら3人の友人を得た俺は、以来、クラスメートや隣のクラスの生徒からの「兄貴をネタにしたイヤガラセ」を受けることがなくなった。
だから、孤独に過ごすはずの俺だったが、3人の友人のお蔭で、決して惨めではない学生ライフを送れるようになったのだった。
さて、兄貴の清弘の方だが、幸いなことにその後、二つの事態の好転があった。
その一つは俺の成長だった。
身体が大きくなった俺は、クソ親父のことを「睨み」で牽制出来るようになったのだった。
俺は、兄貴が親父から辛く当たられる度に、親父のことを睨んで牽制した。
すると、親父は徐々にだが兄貴に手出しをしないようになっていった。
その代わり、親父は、俺がとっくに眠ってしまった時刻にならないと帰宅しないようになった。
以来、親父の酒量は、益々増えていくのだった。
そして、兄貴にもたらされたもう一つの好転だが、それは、御袋が良い精神病院を見つけたことだった。
それは、枚方市内にある総合病院の精神科だった。
その病院の院長兼理事長は、地域の住民から「仏の院長」という愛称で親しまれていた高齢の人格者だった。
結局、兄貴は、その病院に長く居つくことになるのだった。
そこでの入院生活は現在にまで及んでいる。
そのように貧しい中でも、比較的に落ち着いた生活を送れるようになった我が家だった。
すなわち、兄貴は比較的に落ち着いた入院生活を送り、俺は、学習環境の貧弱さ故か、高校時代までは学業の面であまり振るわなかったのだが、その後、一念発起して、二流ではあるが国立大学の経済学部に進学した。
その一方で、俺のクソ親父だけが、酒浸りの生活を続け、体調を崩していくのだった。
そして、俺は、二十歳となった。
大きな問題など特にはなさそうな我が家だったのだが、ある日、難題が降って湧いた。
その難題とは、姉の婚約者だった。
姉がその両親に紹介したその相手の男は、どういうわけだか、バイセクシャルだったのだ。
しかも、そのバイセクシャルは、後に全容が明らかになるのだが、変態中の変態だった。
=続く=