第2話:文化住宅
第2話 文化住宅
昭和32年、すなわち、西暦1957年。
それは、俺の兄貴がその「心地良いイタズラ」をされた年であり、俺が生まれた年でもある。
兄貴がイタズラされたのは、その年の5月、そして、俺が生まれたのは同じ年の7月だ。
俺の誕生後は、さしたることもなく、ただ漫然と5年の月日が流れた。
そして、俺が5歳になったとき、我が家は京都府の京都市から兵庫県の西宮市へと引っ越すことになった。
その理由は親父の転勤だった。
俺の親父は銀行員だった。
京都市内の支店で勤務していた。
だから、我が家は立派なお屋敷に住んでいた。
親父の勤務する銀行が借り手からの担保として差し出させていた物件を借り手の破産により差し押さえた。そして、そのお屋敷を社宅として使用し、俺たち家族と銀行の同僚の一家を住まわせていたのだ。
その同僚の一家は二階に、そして、俺たち一家は一階に住んでいた。
二階建てのお屋敷だったのだ。
しかし、転勤に伴い我が家はその社宅からの退去を余儀なくされた。
だから、西宮市へと引っ越すことになった。
親父の転勤先は支店ではなく大阪市内の本店だった。
ならば、大阪に住めば良さそうなものなのだが、何らかの都合で西宮市内の文化住宅に住まうことになったのだった。
とは言っても、阪神電車を利用すれば最寄りの武庫川駅から梅田駅へは30分ほどで行けた。だから、十分に通勤圏内と言えた。
その西宮市内の文化住宅に到着したとき、俺は、かなりのショックを受けた。
その文化住宅があまりにも粗末だったからだ。
なにせ、2世帯でシェアしていたとは言え、元はお屋敷に住んでいたのだ。
京都では10畳の居間があった。
しかし、文化住宅の間取りは2K、六畳と四畳半の部屋と最小限のキッチンと言う小さな住まいだった。
そこに一家5人。
そこで、俺は、四畳半の方に置かれた二段ベッドで寝ることになった。
兄貴と二人、下のベッドで。
そして、姉は上のベッドで寝ることになった。
親父と御袋は六畳間の方だ。
文化住宅と言っても関東圏の人にはわからないだろう。
しかし、簡単な話だ、要するにアパートだ、何も違わない。
風呂なしの一室だった。
だから、近くの銭湯に通うことになった。
俺は、我が家が急に貧乏になったと思った。
しかし、後で知ったことだが、それは親父のせいだった。
京都の家は社宅だったので家賃が格安だったのだが、普通の借家となれば、そうはいかない。
しかし、親父は大手銀行の行員だ。
それは親父が40歳のときだった。
大手銀行の40歳の男性行員。
となれば、今で言えば年俸は1000万に近かったはずだ。
その自宅が2Kの文化住宅。
何故か?
その理由は単純だ。
親父が遊びに金を使い過ぎたのだ。
競馬に競輪に麻雀に外飲みにその他諸々。
親父は遊びまくっていた。
忙しいと言っては、帰りはいつも午前様だった。
しかし、忙しいと言う割には、しこたま酔って帰宅するのだった。
それも、勤務日には毎晩。
御袋が親父に甘過ぎたのだ。
かくして、粗末な新居での新しい暮らしが始まった。
家賃の差額の工面のためか、ほどなくして、御袋が外に働きに出るようになった。
そのため、兄貴は近くにある県立の精神病院に入院した。
そして、俺は5歳で鍵っ子になった。
やむを得ず保育園に1人で通った。
5歳児が。
弁当も作ってもらえず、行きしなにあるパン屋で牛乳とアンパンを買い、それを保育園に持って行った。
毎日、牛乳とパンだった。
兄貴は、母が休みのときに、外泊で家に帰ってきた。
姉は、本人の希望でもあったのだが、中学校を卒業するとすぐに、梅田コマという大阪では非常に有名な劇場にバックダンサーとして就職した。
美空ひばり特別公演のときには美空ひばりのバックで、そして、橋幸夫特別公演のときには橋幸夫のバックで踊ったわけだ。
そんなある日のことだ、
「キーッ、イーッ、キャアアアアッ!」
兄貴が一糸まとわぬ裸で我が家から飛び出して行った。
「騒ぐから」と親父に折檻されたのだ。
それで、ヒステリーを起こしたのだ。
そんなの当り前だ。
たまの外泊で帰宅したのに父親に優しくされるどころか折檻されたのだから。
まったく、遊びまくるは、知的障害者を折檻するはで、まるっきりクズな親父だった。
俺は、御袋に言われて兄貴の後を追いかけさせられた。
それは、俺が小学校1年生のときの出来事だった。
「大人が出て行ったのでは世間体が悪いから」と、俺が兄貴の後を追い連れ戻すように言われたのだった。
しかし、子供の俺にも世間体くらいはあった。
ありまくった。
「キ●ガイの弟」、
その一件以来、俺は、近所の子供たちと、小学校のクラスメートたちから、そのように言われることになってしまったのだった。
=続く=