第12話(最終話):ミドリちゃん再び
第12話(最終話) ミドリちゃん再び
しかし、今日は特に疲れた。
心臓の不整脈も感じる。
寒くなってきたからだろうか?
それでも、俺は、とにかく帰宅した。
帰宅して、やはり1時間ほど眠ったのだが、なにやら息苦しさを感じて目が醒めた。
目が醒めてみると、両腕に痺れを感じる。
秋に入り、気温が下がるにつれて、明け方などに目が醒めると、両腕に痺れを感じ、同時に両腕が冷たくなることが多くなっている。
それは、毎年そうなのだが、徐々に悪化しているのを感じる。
特に今年はその症状が酷い。
その原因だが、要するに心不全だ。
俺は、10年前から狭心症の薬を、そして5年前から不整脈の薬を飲んでいる。
20年前とかまで血糖値のコントロールを怠っていたので、そのツケが今になって回っているのだろうと思う。
若いときの不摂生は後になって必ず祟るというわけだ。つまりは、自分のせいだ、仕方がない。
それにしても、今日は特に酷い。
なんだか辺りが暗くなってきた。
日が暮れてきたからか?
いや、違う。
蛍光灯が点いているのだから、日暮れなど関係ない。
ひょっとして、目が見えなくなってきているのか?
どうやら、そうらしい。
息も苦しくなってきた。
俺は死ぬのかな?
そうだな、このままだと死ぬな。
救急車を呼べばなんとかなるかも。
呼ぼうか?
いや、やめておこう。
このまま死ぬのなら、それほど苦しい死に方ではない。
いつかはどうせ死ぬのだから、この程度の苦痛で死ねるのなら、むしろラッキーだ。
そうと決まれば、これまでのことでも振り返ろうか?
うん、そうしよう。
あ、そうだ、兄貴のことはどうしよう?
いや、大丈夫だ。
姉がいる。
姉は、昔はバックダンサーで、今はフラダンスのインストラクターをしているのだが、生徒約1000人を擁するフラダンス教室を運営する財団法人の副理事長の座を巡り、ライバルのインストラクターたちと出世競争をしていた。
だから、御袋と兄貴の面倒を俺に任せきりにしていたのだが、俺は、そんな姉に2年半前に切れた。
切れて、大声で怒鳴りつけ、御袋と兄貴の面倒を一切見ない姉の非を強く責めた。
それが効いたのか、姉は、上辺だけでも態度を改めた。
そして、御袋と兄貴の面倒を見るようになった。
姉の自宅が兄貴の病院に近いからか、兄貴の面倒は特によく見ている。俺よりもマメに兄貴の病院に通っている。
だから、後のことは姉に任せておけば大丈夫だろう。
病院側に強く出られないところは、やや頼りないが、その代わりに、俺よりもうんと人に好かれる。ならば、愛嬌でなんとかしてくれるだろう。
ところで、姉のバイセクシャル夫も死んだな。あれは、去年のことだったな。
「憎まれっ子、世にはばかる」と言うから、もっと「はばかる」のかと思っていたが意外にすんなりと死によった。享年は73歳だったかな?
あのバイセクシャル野郎の姉なんか、もっとすんなりと死んだよな、あれは3年前だったな。
二人とも兄貴のことを「この世にいないことにしてくれ」とか言ったが、自分たちがこの世にいなくなってしまいやがった。
「この世にいないことにしてくれ」で思い出したが、親父の兄弟たちもとっくの昔に死んだ。
そうか、そう言えば、「この世にいないことにしてくれ」と言った連中はみんな死んでしまったな。
生前は腹が立った連中だが、死んでしまうと、哀れな人間に思える。
あいつらは大切なことに気付かないまま死によった。
遺伝子工学が飛躍的に進歩しない限り、知的にせよ身体的にせよ、障害者は必ずこの世に生まれる。
つまり、障害者として生まれることを「貧乏クジ」と喩えると、その「貧乏クジ」は、誰かが必ず引くことになる。
ならば、その貧乏クジを引いてくれた人は、健常者にとって恩人ということになる。
だから、お荷物と考えるなど心得違いも甚だしい。
その恩人に向かって、すなわち、兄貴に向かって「この世にいないことにしてくれ」とは、何とも罰当たりな話だ。
この考え方は、俺が発想したことだが、絶対に真理だと思う。
しかし、当事者でなければ辿り着くのが困難な真理ではある。
それならば、せめて、感謝まではしなくても、邪険にするのは控えてほしかったところだが、俺の叔母も叔父も、バイセクシャルな義理兄もその姉も、他の親戚たちも、俺の今の境地のうんと手前で死んでしまいやがった。
愚かな奴らだ。
せっかく人間としてこの世に生まれてきたのに、畜生として死にやがった。
思えば、憎むどころか同情すべき連中だったのだな。
それに比べて、俺の兄貴は立派だ。
あれほどに悲運な人生なのに、これまで、恨み言ひとつ言わなかった。
今日、鼻からチューブを入れたまま眠る兄貴の横顔を見ていたとき、俺はふと思った。
「俺が出逢った中で、この人が一番まともだな」と。
思えば、兄貴という存在は、この世とそこにうごめく人間というものの正体を、その身をもって教えてくれた俺の真の恩師だったのかもしれない。
ふう、なんだか意識が遠くなってきた。
なあ、兄貴、ここで思っても聴こえないだろうが、最期に言っておくよ。
俺は死ぬが、兄貴は生きるのだろ。
生きるのなら、鼻からチューブで栄養を取るのではなくて、死ぬまでに一度でいいから口から食え。
あ、目が見えなくなった。
ここまでか。
さて、この物語は、隆弘という語り手を失った。
それだからと言って、ここで終わるわけにも行かないので、物語の続きは私が述べることにする。
「私」とは誰か?
それは重要ではない。
気にするな。
翌日。
清弘の姉の春香が数十年ぶりにミドリと並んで歩いている。
ミドリ?
そう、ミドリだ。
60年ほど前に京都のとある路地で清弘にイタズラをした、あの「ミドリちゃん」だ。
そのミドリが春香と並んで歩いているわけ。
それは、二人の間に年賀状だけでも音信があるからだ。
ミドリは、数十年ぶりに春香に電話した。
そして、ミドリは春香から清弘の窮状を聞いた。
だから、ミドリは清弘を見舞うことになった。
そういうわけで、二人は、今、並んで歩いているのだ。
二人は、これから、清弘の病室に行く。
その道すがら、春香はミドリに話しかけた。
「ミドリちゃん、ホンマにええの?」
「もちろんよ。78歳では手持ちのお金を使い切れないもの。夫にはとっくに先立たれたし、子供もいないしで、お金の使い道がないのよ。だから、遠慮は無用よ」
「じゃあ、本当に甘えるわよ」
「どうぞどうぞ」
「ところで、ミドリちゃんって、凄いわね、テレビに出るような名医を知っているとはね」
「だって、あの先生は、夫の大学の後輩だもの。夫の生前には、我が家によく遊びに来ていたのよ。知っているどころじゃないわよ」
「そうやったんや、なるほど。ところでだけど、本当に治してくれると言ったの?」
「うん、明ちゃんの病状を伝えたら、『それなら何とかなりそうですよ』と言っていたもの。期待して良さそうよ」
「じゃあ、期待しよっと」
「ところで、隆ちゃんはどうしたのかな?」
「どのみち、病室で会えるわよ。なんなら、電話してみようか?」
「病室で会えるのなら、いいわ」
「じゃあ、もう病室に上がる?」
「そうね、このままロビーで待つ分、時間が無駄だものね」
しかし、隆弘は絶対に来ない。
なにせ、前日に自宅で孤独死したのだから。
だが、このときの春香は、隆弘の死を知る由もない。
それはともかく、そのような会話を交わすうちに、二人は、清弘の病室に到着した。
しかし、清弘は、見舞いに来てくれた人が誰なのだか見当もつかない。
「お姉ちゃん、この人、誰や?」
「知ってる人やで、当ててみ」
「・・・ うーん、分からんな」
「アンタも薄情やな、ミドリちゃんやんか」
「ええっ、お婆ちゃんやんか!」
「こら、明ちゃん、そんなこと言うたらあかんで」
清弘に「あ婆ちゃん」と言われたミドリは、苦笑いをしながら言った。
「うふふ、現にお婆ちゃんなのだから仕方がないわね。だって、もう78歳だもの。明ちゃんだって、すっかりお爺ちゃんよ」
「この病院の看護師は若いと言うてくれるで」
「それは、大切な患者様だからじゃないの、エヘヘ」
それからは、清弘、春香、そしてミドリの三人で懐かしい話をした。
清弘は、知恵遅れながらも、大事なことには常識というものがちゃんと働くので、イタズラのことには敢えて触れなかった。
もちろん、ミドリがそのことに触れるわけはない。
思い出話が取り敢えず終わると、ミドリは、ある大切な提案を持ち出した。
大切な提案とは、清弘の転院のことだった。
そして、その提案の説明が終わると、清弘が、
「なあ、ミドリちゃん、その先生、痛いことせえへんか?」
「せえへんよ。この病院のヤブ医者と一緒にしないでよ」
「この病院の医者のことを知っているのか?」
「ええ、その先生に聞いて知っているわよ。評判が悪いのだってね、この病院。こんなところにいたら、しまいには殺されてしまうわよ」
2年後。
2020年5月。
清弘は、その車椅子を春香に押されて、療養型の高級有料老人ホームの庭を散策している。
その場には春香の娘の香織もいる。
清弘から見れば姪にあたる娘だ。
娘と言っても、既婚者で子持ちの36歳のオバサンだ。
隆弘は2年前に死んだわけだが、大金を出して清弘に高度な医療を受けさせたミドリも1年半前に亡くなった。
ミドリは、その生前に、清弘が今入居する高級有料老人ホームの手配もし、ホームに必要な全額を前払いで払い込んでいた。
つまり、ミドリは、その終活の一環として清弘を救ったのだった。
ミドリが清弘の目の前に数十年ぶりに現れたとき、ミドリは既に余命宣告を受けていた。末期の胆嚢ガンだったのだ。
だから、死を前にして善行をしておこうと考えた。
そんなのは、よくある話だ。
それでも、清弘にとっては最初にして最大の幸運となった。
ミドリのお蔭で、清弘は回復した。
車椅子の世話になる身の上であることに変わりはないが、その健康状態はすこぶる良好で食欲も旺盛だ。
その老人ホームは、その建屋が鉄筋コンクリートの3階建てなのだが、各部屋が高級ホテルのセミスイートのような豪華な造りだ。
医師も看護師も常駐しているので健康面の不安もない。
もちろん、完全介護であり、食事も美味だ。
奈良との県境の山が近く、景色がいい。
遠く西には、飯盛山と生駒山が見える。
庭に花が途切れることはなく、特に薔薇は、枚方パークの薔薇園よりも見事だ。
そのような庭を、清弘は、姉の春香そして姪の香織とともに、散策している。
車椅子に座る清弘の膝の上には「ときめく薔薇図鑑」というムック本が乗せられている。
姪の香織が清弘に話しかけた。
「清弘おじちゃん、もうすぐ東京オリンピックやね」
「そうやな、もう5月やからな」
「観るのやろ?」
「運動には興味ないねん」
「ほんなら、おじちゃんは何に興味があるの?」
「今は薔薇や。この庭にはいろんな薔薇が咲いているからな」
清弘の障害には自閉症も含まれている。
しかし、清弘の自閉症は軽く、十分なコミュニケーションが可能だ。
そのような知的障害者にありがちなことなのだが、清弘の記憶力は人を呆れさせるほどに優秀だ。
だから、薔薇の図鑑に紹介されている薔薇の品種をほとんど憶えてしまった。
「ふーん、おじちゃんは、薔薇に興味があるのやね。だから、膝の上に薔薇の図鑑が乗っているのやね」
「そうやな」
すると、香織は、黄色い薔薇を指さしながら言った。
「ねえ、おじちゃん、だったら、この薔薇の名前を言える?」
「これは、『いちばん星』や、四季咲きの薔薇や」
「四季咲きって?」
「どの季節でも咲く花のことや」
「ふーん、清弘おじちゃんって凄いのやね」
「褒めてくれて、おおきに。この黄色い薔薇、綺麗やな」
それは、清弘が生まれて初めて花を愛でた瞬間だった。
しかし、もちろん、そこに弟、隆弘の姿はない。
=「了」=




